第7話 男役  芦野信司(挿絵も)

「夕食までもうひと頑張りしてくる」  美由紀はそう母に言い残し、二階の自室に戻ってきた。ビーフシチューのにおいがスエットの上着について入ってきた。美由紀は机の上に開いた教科書のページを二三度めくって見たが、少しも頭に入ってこなかった。  昨夜、父が美由紀に対し怒鳴った言葉が蘇る。「すねっかじりのくせに」「自分の父親が憎いのか」これまであんな風に怒鳴られたことはなかった。思い出すとまた悔しくなる。  親に経済的な負担をかけているのは分かっている。高校生になったら、たくさんアルバイトをして、父の負担にならないようにしてやる。そう言い放つことができたら、気持ちは多少すっきりするだろう。でも、それは父へ反発する心が言わせるだけで、本当はやらないだろうと自分でも思っている。宝塚受験のためには、いろいろなことを学ばなくてはならない。高校にはいったら、いままでお留守にしていたバレエを習わなくてはならず、それにはお金も時間も要る。美由紀の家は富裕ではないにしても、世間に名の通ったソフトウエア会社でマネージャーと呼ばれる父が出せないレッスン料ではないだろう。現に、今でも日吉の音楽スクールに毎月五万円の授業料を払っている。高校の音楽科へ入学したら、音楽スクールの月謝をバレエスクールの月謝に振り替えることをねだろうと美由紀はこっそり計画していた。  まして、美由紀が父を憎いと思ったことなどないのに、なぜあんなに怒ったのか。……… それに、母が急に父に殴りかかったことも美由紀には不思議な光景だった。はじめてみ…

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第6話 斑の羊     かがわとわ

 あの日、制服のスカートが切り取られていたショックで、秋江はそのまま早退した。担任から両親にも知らせが行った。秋江は学校にも両親にも、知らぬうちに切られたと説明し、電車で触られたことは黙した。体調が悪くなり、遅刻した事とは無関係だと。運悪くたまたま被害に遭ったと装った。学校からは、保護者と生徒に向けて「変質者情報」の一斉メールが送信され、ママは心配のあまり、事件後一週間は車で学校まで送ってくれた。その後、似たような被害情報が挙がらなかったこともあり、切り取り事件は周りの話題から消えていった。が、秋江の気持ちは収まりようがなかった。  ユッコのお父さんが。きっとそうだ。布の切り貼り。愛おしそうになぞっていたあの指。秋江のスカート生地もおじさんのコレクションに加わったのだ。 ──布たちは、おじさんの集めた宝物なんだよ── 静かな低い声が、耳元で蘇えるたび、それは不快さから怒りへと変わって行った。舌の黄色いおやじは無実で、チカンは、ユッコのお父さんだった。切った上に、触ったのだ。それとも、切った人と触った人は別? このまま、黙っていれば、忘れてしまえばいいのか。この先、ユッコには知らんふりして接していくのか。それとも適当に理由をつけて、もうユッコと会わなければいいのか。──そんなの、嫌だ。ユッコに会えなくなるなんて嫌だ。 電車通学に戻った秋江は、心臓をばくばくさせながら、こっそりユッコのお父さんを後方からスマホで撮影し、十月の末にユッコを呼び出した。 「この人、チカンなの」  激しく動揺した…

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第5話   クリスマスイブ  黒崎つぐみ

 昨夜、美由紀は泣きじゃくりながら邦夫に抗議した。その直情に刺激されたのか、気が付くと順子は夫の背中に殴りかかっていた。「お父さん、チカン?」とキツイ目で美由紀が詰め寄ってからもうすぐ2か月になろうとしている。あの日から順子は握った拳を懐へしまい、平穏な日常に戻ろうと努めていた。美由紀の受験が終わるまでは、と拳を固く握ったまま月日が過ぎていた。順子は2か月前のあの日から邦夫と交わす会話が減っている。口を開くと夫を責めてしまいそうになる。恨み言は言うまいと決めていたが、昨夜は堰を切ったように拳に力を込めていた。行動に出てしまっても邦夫の態度は変わらない。美由紀が泣きじゃくって自室に閉じこもった後、邦夫も寝室へ上がってしまった。体をぶつけた分だけ、以前より他人になってしまった。  そんな時、手を動かしていると少しは気が紛れた。テーブルに広げていたパッチワークの布をお菓子の缶に戻しながらぼんやりと眺める。 美由紀がまだ小さいころ、「お母さん、バッグ作って!」「わたしだけのお弁当箱入れ作って」「アッキーとおそろいの、うわばき入れがいい!」  順子は言われるままにパッチワークでいろいろなものを作った。それはまるで空いた時間を埋めるジグソーパズルのように、順子の隙間も埋めてくれた。美由紀が小学校を卒業して、しばらくはその趣味も押入れの中にしまい込んでいたが、この冬、また手芸道具を引きずり出したのだった。美由紀は2階で受験勉強をしている。夫は最近帰りが遅い。夫の帰りを待つ間、以前はこんなに胸がざわざわ…

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