第25話(最終回) 境界線上にあるもの 芦野信司

 三月十五日の日曜日、午前十時過ぎに木田家に電話が入った。玄関傍で受話器を取ったのは順子だった。  美由紀は二階の自室から階段を下りてくるところだった。順子が電話の相手に妙にはっきりした声で「よろしくお願いします」と答えているのが聞こえた。美由紀の意識のなかでは二月二十八日の高校受験発表があってからの生活は、宝塚受験に完全に切り替えている。階段を下りること一つ取っても、体の芯を意識しておなかをやや持ち上げるように腹筋を使い、顎を引いて下りてきたのだった。四月からは音楽スクールに換えてバレエスクールに通うと計画していたとおり、すでに入学手続きを済ませていた。  電話に出た順子の言葉遣いは妙にしゃっちょこばっているが、調子は弾んでいる。美由紀は、脚を開いてリビングのソファーの背もたれに両手をかけ、上半身を倒すストレッチをしながら順子の声に耳をすませた。  受話器を置く音がして、順子がリビングに入ってきた。 「聞こえた?」  美由紀は上半身を倒したまま背中を反らしていたが、順子に向けた顔だけを横に振った。 「警察からよ。……… 犯人が捕まったって」  美由紀は、一呼吸して体を起こし、両腕を回しながら順子の方を向いた。 「やっとというか。意外というか。……… 何も連絡が無かったからもう探していないのかと思っていた。半分以上無理かなと思っていたのに、よく見つかったものね。……… すごいね、警察」 「昨日の夜、菊名駅で痴漢の現行犯で捕まった男が、あの防犯ビデオの改札をすり抜けた男と似ていたん…

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第24話 これから ここから   かがわとわ

「端切アートは、あなたの犯罪行為によって創られたのですね」 「はい」 「絵のパーツに必要な生地をまとっている人物を狙って、切り取り続けた」 「いえ。逆です。呼ばれるのです。そうなったら、切るしかないのです。切るしかなかった服が先にあり、その端切れたちから絵が生まれます」 「呼ばれる?」 「ええ。私にはわかるのです」 「あなたが切り取るのは、すべて女性からですよね」 「猫女でなくてはいけません。犬女はだめです。近くに寄っただけでわかります。猫女の身につけている布を、切り取らなくてはならないのです」 「ネコオンナ?」 「わからないのですか、先生。あなたも猫の耳をお持ちでしょう」  ──先生と呼ばれて、秋江は自分が白衣を着ているのに気づく。  目の前の男性は、おじさん……邦夫だとわかった途端に、邦夫の顔がサラサラと崩壊し、女の顔が現れる。──おばさん……順子だ。  不快と不安が一気に押し寄せ、秋江が立ち上がると同時に、順子が飛びつくように白衣の裾をつかむ。つかんで離さない。嬉しそうに笑っている。 「この布、とても必要だわ。切らなくては」  ──秋江は、自分の唸り声で目を開けた。心臓がバクバクしている。──夢。夢か。仰向けのまま、汗ばんだ額に手をあてていたが、ようやく枕の下からスマホを出し、時間を確認した。2:47の文字が浮かびあがる。ベッドサイドのリモコンに手を伸ばし、部屋の間接照明を点すと、半身を起こした。何、今の。怖っ。──そうだ。昨日ユッコから聴いた話と、おばさんの…

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第23話  笑顔   黒崎つぐみ

2月8日午後、秋江の母美怜が木田家にやって来た。暖房の効いたリビングから、美怜を玄関の外まで見送った順子の頬に、立春を過ぎたとはいえ身を切るような風が吹きつける。その風の中をピンクグレーのチェスターコートを着た美怜が振り返らずに颯爽と歩いて行く。順子は、美怜の後姿が曲がり角を曲がるまで、いつ振り向かれても会釈をする体勢で見送っていた。結局曲がり角でも美怜の視線はこちらに向けられることはなかった。順子は見えなくなった美怜に一礼すると、玄関のドアを開けた。冷たい空気が順子の体に纏わりつくように家の中まで入ってきた。テーブルに置かれた手土産の生チョコ大福を見つめたまま、数分前まで美怜の一言ひとことに気押されて、その赤い唇から次にどんな言葉が飛び出すのか、ビクビクしながら対応した小一時間を反芻してみた。  秋江は痴漢に遭った日のことを全部美怜に話したのだろう。美怜が邦夫を痴漢の犯人と疑い、真偽を自分の目で確かめる目的でやって来たことは明白だった。しかし、邦夫を非難する言葉は一言も発しない。それどころか、自分の子どもたちが邦夫に対して疑惑の目で働きかけた非礼を詫びた。その徹底した態度は潔く、明るい。気品さえ感じられた。美由紀が痴漢の被害にあったと知るや、痴漢撲滅運動への参加を要請するあたり、さすがに県会議員の奥様だと、順子はその押しの強さに、自分にはない覇気のようなものさえ感じたのだった。いっぽう順子は「お父さんは痴漢?」と美由紀が父に聞いたときから疑いの目で邦夫を見ていた。邦夫はこの家の中に居場…

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