第25話(最終回) 境界線上にあるもの 芦野信司

 三月十五日の日曜日、午前十時過ぎに木田家に電話が入った。玄関傍で受話器を取ったのは順子だった。
 美由紀は二階の自室から階段を下りてくるところだった。順子が電話の相手に妙にはっきりした声で「よろしくお願いします」と答えているのが聞こえた。美由紀の意識のなかでは二月二十八日の高校受験発表があってからの生活は、宝塚受験に完全に切り替えている。階段を下りること一つ取っても、体の芯を意識しておなかをやや持ち上げるように腹筋を使い、顎を引いて下りてきたのだった。四月からは音楽スクールに換えてバレエスクールに通うと計画していたとおり、すでに入学手続きを済ませていた。
 電話に出た順子の言葉遣いは妙にしゃっちょこばっているが、調子は弾んでいる。美由紀は、脚を開いてリビングのソファーの背もたれに両手をかけ、上半身を倒すストレッチをしながら順子の声に耳をすませた。
 受話器を置く音がして、順子がリビングに入ってきた。
「聞こえた?」
 美由紀は上半身を倒したまま背中を反らしていたが、順子に向けた顔だけを横に振った。
「警察からよ。……… 犯人が捕まったって」
 美由紀は、一呼吸して体を起こし、両腕を回しながら順子の方を向いた。
「やっとというか。意外というか。……… 何も連絡が無かったからもう探していないのかと思っていた。半分以上無理かなと思っていたのに、よく見つかったものね。……… すごいね、警察」
「昨日の夜、菊名駅で痴漢の現行犯で捕まった男が、あの防犯ビデオの改札をすり抜けた男と似ていたんですって。だからパスモに残っていた乗降履歴を照合したところがどうも怪しい。渋谷駅の改札を通過した時刻からするとあの時の電車に乗っていた可能性が高い上、降りた駅の記録がなかったらしい」
「それで、自供したの?」
「簡単には認めなかったみたいだけど、ビデオがあるしね。弁護士といろいろ相談して、今日になって認めたみたい」
「何歳だったの?」
「三十二だったかな。結婚していて、赤ちゃんが産まれたばかりみたい。たぶん、弁護士から示談の話が行くと思いますよって警察の方がいうものだから、示談はしないと家族で決めていますって言っちゃった。お父さんもそう言っていたし。……… そうそう、お父さんに連絡しなきゃ。……… ああでも、いまが仕事の佳境と言っていたし、どうしようか。メールだけしておこう」
 順子はダイニングのテーブルの椅子に腰を下ろし、スマホに向かってメールを打ち始めた。
 邦夫は、顧客である銀行の年度替わりに向けた送金決済のシステム変更のため、三月に入ってから休日返上で客先に詰めていた。徹夜もあり、昨日もホテル泊だった。朝に、今日は早めに帰りたいと連絡があった。それでも、順子は「お父さんの言う早めは、今日中くらいの意味でしかないから」と美由紀に言った。
 美由紀は漠然と一月の事件を思い出していた。あの時の男の暴力は何だったのだろうと考えると不思議な気がした。傍目には幸福そのものの環境なのに、あの男に感じたのは圧倒的な怒りであった。何に向けての怒りだったのだろう。新妻に?親に?会社に?女一般に?……… まさか赤ちゃんにではないだろうが。
 美由紀は、さっき階段を下りてきたときの姿勢の良さを放擲して、ばたばたと急ぎ階段を上ると、自室のドアを閉めた。ベッドに仰向けになり、秋江にLINEを打った。痴漢犯が捕まったこと、犯人は若く、奥さんと赤ちゃんがいることを伝えた。示談はしないと家族で決めていたが、秋江はどう思うかと訊いたのだった。
 しばらくして、秋江から返信があった。
「おめでとう。よかったね。……… 今夜、横浜のフレンチレストランで家族で私の卒業祝いがあるんだけど、そのサプライズのネタにしようっと。うちのママもがんばっていたし、喜ぶわ。……… ユッコはこれから宝塚の受験があるから、お祝いはまだだよね。ゴメンね。勝手に浮かれていて。でも、私も自分の進路を『心を研究する人』にすると決めたんだ。昨日の夕食の時、家族に発表したの。それが嬉しくって。……… ユッコを襲った犯人の心理はいまの私にはわからない。でも、興味津々。これぞ、私のフィールドって感じ。会ってみたいし、じっくり話を訊いてみたいな。示談にするかどうかは私には言えないこと、かなあ。ユッコのおじさんやおばさんと話して決めるしかないんじゃないかと思う。うちのパパがこんなことを昨日私に言ったの。『心に関わる仕事をするなら、相手がどんなに不可解でも、まずは寄り添いなさい』って。昨日からずっとその言葉が頭から離れない。寄り添うことと同調することは違う。犯人の奥さんや赤ちゃんのことを考えれば示談もあるだろうけれど、それは寄り添うことではないしね。パパの言葉は重いな。私がこれからずっと背負って行かなければならない言葉になるような気がする。でも、これは私のこと。……… それより、あと四日後ね。宝塚の第一次試験、がんばってよ」続けて、わくわくスタンプが何種類も連打されてきた。
 美由紀は部屋の天井に貼ってある天乃くれないのポスターを見つめながら、奇妙な淋しさを感じていた。自分の進む道が見つけられないと悩んでいた秋江が、いよいよその道を見つけ歩もうとしている。それが喜ばしいのは美由紀も同じだ。しかし、秋江がまた一段と自分から離れた存在になってしまったという淋しさが去来するのだ。
 また、もう一つ。秋江に対する劣等感のようなものが美由紀を暗くさせた。秋江が一生懸命にいろんなことを考えているのに対し、自分は考えることなく突っ走ってきた。それが自分らしさだと自分に言い聞かせてきた。でも、そのために大事なことを見過ごしていたのではないかという気がする。美由紀にとって秋江は幼なじみの友だちであるとともに、どこか疎ましい存在でもあった。お嬢様然とした悪気のない無神経さが苦手だった。いまも、さらっとフレンチレストランでお祝いだという。秋江にとっては何でもないのかもしれないが、美由紀には縁遠い話だった。邦夫に痴漢されたと言われたときの美由紀が感じた顔から火が出るような羞恥心を秋江はどう思っていたのだろう。そして、真実を追求するためには驚くような行動力を発揮し邦夫に迫っていく。でもそれが美由紀の心を切り裂く行為だということを気づかない。秋江のパパの助言は、秋江の足りない点をズバリついていると思う。でも、秋江のすばらしさは、そんなこととは別に変わらぬ友情で自分に接してくれたことだ。しかし、それに対して自分はどうであったかと美由紀が思い返せば、友情より疎ましさの方が勝ることが多々あったと思うのだ。秋江から『寄り添う』という言葉を言われたとき美由紀の頭をかすめたのは、痴漢被害にあった秋江に自分がどれだけ寄り添ってきたのだろうということだった。それを思うと自分が情けなくて悔しかった。
 お昼の用意ができたという順子の声が下階から響いてきた。
「はーい」
 美由紀は、ベッドから起きあがり階段を急ぎ下りかけようとしたとき、バレリーナのように歩くことを自分に課していたことを思いだした。おもむろに背筋を伸ばして、静かに下りたのだ。
 食卓には、四つに切ったサンドイッチの白い皿とヨーグルトのガラス鉢が二セット並べてあった。順子は紅茶を淹れていた。
 姿勢を正してダイニングに現れた美由紀を、順子はおかしそうに笑った。
「急に始めたって、身につくわけないのに」
「遅くたって始めなきゃ始まらないでしょ」美由紀はキッチンの水道で手を洗った。「お父さんから返事がきた?」
「まだよ。……… 美由紀は二階で何してたの」
「アッキーにLINEして。返事があって。それから考えごと」
 順子と美由紀は食卓をはさんで向かい合わせに座り、食事を始めた。
「ねえ、お母さん。犯人の奥さんと赤ちゃん、どうなるかなあ。犯人は常習者なんだろうし」
 美由紀は、食べかけのサンドイッチを右手に持ったまま、順子の顔を探るように見ている。
「最悪、離婚になっちゃうかもしれないわね。犯人の改悛の程度によると思うけど」
「じゃあ、うちのお父さんが痴漢していたら、離婚?」
 順子は、サンドイッチを皿に戻して、ティーカップを口に持っていった。少し唇を湿らせ、カップをソーサーに戻した。
「ないとは言えない」順子は美由紀の目を見つめた。「夫婦の問題だからね。でも、美由紀がお父さんとお母さんの子供であることに変わりはないからね」
 美由紀は姿勢をまっすぐに戻して、手に持ったままだったサンドイッチをつまらなそうに食べた。
「……… 夫婦ってそうなんだ」
「いや、わからないわよ。かえって、それ以後絆が強くなるってことがあるかもしれないし。何があるかなんてわからない」
 順子が笑っている。
「お母さん、この頃明るいよね。それに自信とか、たくましさも感じられるしね。……… アッキーの事件のときも私の事件のときは最悪だったものね。私もそうだったけど、お母さんも変になっていた」
「大変なこともあったけど、おかげで美由紀はずいぶん成長したわよね。美由紀は信じないかもしれないけど、お母さんだって成長するんだから。……… おかしい?」
「おかしい。……… おかしいよ」美由紀は、両手でおなかをおさえた。「中学を卒業したとたん、お母さんと大人っぽい会話をしている自分がおかしくって」

 邦夫から順子に電話があったのは夕方七時だった。事故があって大倉山駅にいるので来てほしいということだった。何の事故かと訊いても答えはなく、ともかく来てくれという。美由紀もなんだか不安になって、順子について行くことにした。二人ともコートをはおって、駅に急いだ。
 邦夫は、駅の事務室に座っていた。少し離れたところに三十歳台半ばの少し小太りの女性がいた。青ざめた顔で邦夫を凝視している。順子に続いて美由紀が事務室に入ると、二人いた駅員のうちの一人が美由紀の顔をのぞき込んだ。
「あれっ、見覚えがある人たちだなと思ったら、ミユキちゃんじゃない。……… えっ、とすると、こちらの男性は、お父さん?」
 この駅員には美由紀もお世話になった。一月の事件の時も、同じ事務室で慰めてくれたし、先月、駅前でキャンペーンをやっていたときも声をかけてくれた。帽子を取ると白髪の多い、ベテランの人だった。
「はい、父です」
 駅員は、額に手をやり、まいったなあというようにこすっている。制帽に指でもあたったのか、制帽が頭からずり落ちそうになった。駅員は慌てて、左手で帽子を支え、もう一度帽子を深くかぶりなおした。
 順子はおずおずと駅員に尋ねた。
「何か、事故でもあったんですか?」
 駅員はすっかり渋い顔になり、座っている女性の方を見た。
「あの方が、ご主人に痴漢されたと……… 」駅員はちらっと美由紀のほうに視線を送って、言葉をにごらせた。「何かの勘違いの可能性はあるんですが」
 座っていた女性は、コートの襟を胸元で握りしめ駅員にものすごい形相で食ってかかった。
「いいえ、間違いありません。目撃者もいたし、この方、逃げたんですから」
 邦夫は、皮肉な視線を女性に向けて静かにつぶやいた。
「私は、逃げてなんかいません。ただ、電車を降りただけですから。何度言っても、ご理解が行かないようですけど。………目撃者がいるとおっしゃいますけれど、その目撃者はここにいませんし、どこの誰だかも分からないんですから。それに、もともとそんな者がいるわけはないのですから、あなたの妄想じゃないんですか?」
 女性は、邦夫の方を向くのも汚らわしいというように、自分が座っている椅子の向きを変えて、横目で睨んだ。
「ヘンタイ!」と大声でののしる。
 邦夫は、うっすらと笑った。
「あなたのお尻を触るような奴はね」
 女性は大きくため息をついた。
「どこまで、人を馬鹿にすれば気が済むんだか!」
 女性は矛先を順子に向けた。
「あなたもこんな亭主をお持ちで気の毒ね。誠実さがかけらもない。私だって『すみませんでした。私が悪うございました』って言われれば、何もこんな大ごとにするつもりはなかったのに………面の皮が厚いっていうか、何というか……… そのうえ、人を馬鹿にしたこの態度。絶対、許せない」
 順子は何がなんだか分からずに呼び出され、二人の諍いに巻き込まれたものだから、呆然としていた。何となく邦夫が事故と呼んだ事柄の輪郭は見えたものの、どう判断していいのかも分からなかった。そこで、いきなり女性から話を振られたもので、女性の剣幕に押されたまま反射的に謝ろうという気持ちになっていた。そのとき、邦夫の声が轟いた。
「謝るなよ!俺じゃないからな。……… 俺は逃げも隠れもしないという意味で呼んだんだから」
「駅員さん。警察を呼んでください。もう、私我慢できない」
 女性が叫んだ。
 駅員は女性を手で制してから邦夫に向かって話しかけた。
「私もこの商売が長いですから、何度も痴漢事件に遭遇してきました。お嬢さんが遭われた事件もその一つですが、こうして、今回は現行犯……… いやいや言葉は悪いですが、今回のように被疑者が目の前にいますと、なかなか難しいことになることが多いんです。たとえ無実でもですよ。結局、本当かどうかはだいたいの場合分からないですからね。被疑者にとって一番いいことは被害を取り下げて貰うこと。これしかないのに、そんなにつっぱっていては、成ることも成りません。第一、お嬢さんがかわいそうじゃないですか。あんなにがんばって痴漢撲滅運動をしていたのに、お父さんが痴漢で逮捕されたなんてことになったら。……… あなたは平静にしていらっしゃるつもりかもしれませんが、私から見ると激高して理性を失っているとしか見えません。もう少し、穏やかになってください」
 駅員は、今度は女性に向かって話しかけた。
「さっきお話を聞いていて気づいたのですが、本当の犯人は、あなたが目撃者と呼んだ人でしょうね。その目撃者も近くにいたんですよね」
「ええ、すぐ近く。私が痴漢犯を捕まえようと振り返ったら『痴漢だろ。あいつだよ』って、吊革につかまっていた男が教えてくれたの。……… そいつ?」
「目撃者が犯人というケースもあるんです」
 女性は疑わしそうに駅員を見た。
 そのとき、美由紀のスマホに秋江からLINEの写真が送られてきた。店員に撮ってもらったらしく、テーブルを囲んだ家族四人が笑顔でこちらを向いている。高いビルにあるレストランのようで、窓一面に遠くみなとみらいのイルミネーションが輝いている。
『ユッコも来て欲しかったけど受験だからあきらめたと言ったら、お兄ちゃんがLINEのテレビ電話で参加してもらったらって言うの。ユッコの事件の犯人逮捕で盛り上がっちゃった』
 美由紀は、それを見て「ごめんなさい」と言い残し、慌てて駅の事務室を出た。あんなところでいきなテレビ電話が入ったら大変だと思ったのだった。駅横にある大倉山公園への坂道を少し上ると駅前の騒がしさが遠のいた。ベンチがあったのでそこに座った。電車がホームに入って来るのが見えた。メールを打とうと一瞬考えたが、事情が込み入っているので電話に切り替えた。
 秋江は美由紀からメールではなく電話で回答がきたのが嬉しかったらしくはしゃいだ声で出たのだが、美由紀が今大倉山駅にいる事情を話すと「お尻をさわった?おじさんがそんなことをするはずはない」と怒りだした。「絶対にない。そうでしょユッコ」
 美由紀は、秋江が邦夫の味方になってくれたのが嬉しくもあったが、その断言の強さに驚かされた。秋江から邦夫に痴漢されたと言われたのは去年の十一月のこと。夕暮れの児童公園で邦夫の写真を見せられたのだ。秋江は、美由紀の知らないところで邦夫に会い観察してきた。つい、この間だって「シェーレ01の新作」と言って「手」で構成された複雑極まりない作品の写真を送って来たのだった。
「このアート、どう思う?……… この作品を見ると、おじさんの内面が変化しているよね。不安な感じ。おじさん、私のメールを無視しているので分からないけど、変化ない?」
 秋江の好奇心は容赦がない。でも、秋江は自分の知らない邦夫の内面を見つめているのだなあと思ったものだった。美由紀が邦夫に「手の端切れアートにアッキーが興味あるって言ってたよ」と伝えると、邦夫がいまいましそうな顔をしたのだった。その秋江が「おじさんがそんなことをするはずはない」と断言している。
「アッキー、ありがとう。私もお父さんがそんなことをするはずがないと思う。スカートを切ることはあったとしても」
「ぎぇぇぇぇぇ」秋江の雄叫びがあがったかと思うと、急に口調を変えて「私、これからそっちに行く」と言う。
「何言ってるの。来ないでよ。アッキーのお祝いでしょ。もう片がつくような雰囲気もあったし」
「あっ、待って。お兄ちゃんが何か言ってる。……… 何よ、お兄ちゃん。……… 言いたいことがあるのなら、自分で言って。……… あのう、真斗です。僕も、おじさんがそんなことをすることは絶対ないと思います。それでですね、LINEのテレビ電話でその女の人に言いたいのです。……… それ!お兄ちゃん、グッドアイデア。……… ユッコ、聞いてる?……… こっちからかけ直すね」
 LINEがいったん切れ、すぐに呼び出しが鳴った。
 画面は揺れながら、秋江の顔が映った。さっきのレストランだ。個室らしい。
「ユッコ?そこ、どこ?暗いけど」
「公園への登り口。駅の事務室の外からかけてたの」
「じゃあ、駅に行って」
「本気?」
「本気よ。……… でなきゃ、これから行くかどっちかよ」
 美由紀は、坂を下り始めた。
「アッキー」美由紀はしみじみと声をかけた。「アッキーって、アッキーのママとそっくりね」
「ユッコ、いま、何か言った?……… ママもここにいるんだけど」
 美由紀は、息が止まる思いだった。
「……… すみません」
 LINEの向こうから笑い声が響いた。

 美由紀が駅の事務室に入った。
 さっきの言い合いも一段落したようだった。
 美由紀が女性に声をかけた。
「あのう、私、美由紀と言います」
 女性は、すこし驚いたようだった。
「ええ、美由紀ちゃんね。……… いま伺ったばかりなんだけど、あなたも被害者なんですってね」
「はい。それで、もう一人、私の友人がいるんですが、その子も痴漢の被害者なんです。その子が……… うちの父をよく知っているんですが、どうしてもあなたに話がしたいって、テレビ電話をかけてきたんです。申し訳ないんですが、聞いていただけますか?……… 今、その子はご家族と横浜にいて、お祝いの会の最中なんですが、今回の事件を知って、ここに駆けつけるっていうんです。止めてくれって言いましたら、じゃあ、テレビ電話で話させてと言うんです。よろしくお願いします」
 女性も含めてみんながあっけに取られている中、美由紀が自分のスマホを女性の手の内に渡した。女性はスマホをのぞいている。
 秋江の声がした。
「私、東坂秋江と言います。ユッコ、いえ美由紀さんの友だちです。ユッコのお父さんはこれまであまり知らなかったのですが、去年会う機会がありいろんなことを教わりました。おじさんは、ハサミアートの第一人者なのです。うちの兄もハサミにはマニアックな人間なので、それで深く知るようになりました。おじさんは、とっても不思議な人なので、私はおじさんが何かとんでもないことをしでかしてもびっくりしないつもりです。私は、おじさんと知り合いになったことで、私の進みたい道を決めました。それは「人の心の研究」です。おじさんには正直いらいらさせられることもあります。すごく意地悪なところもあります。私は頭に来ると自分の枕を殴りつけます。それほどムシャクシャします。時々大嫌いになるおじさんですが、お尻をさわって喜ぶようなそんな人でないことは確かです。犯人は、絶対別の人です」
 真斗の声に替わった。
「兄の東坂真斗です。妹が言ったとおり、おじさんはハサミマニアの間では神と呼ばれています。僕はその信奉者のひとりです。ただし、法律に興味があって将来はそっちに進みたいため今から勉強を始めているのですが、もし神が法律を犯したなら神であっても断罪しなければならないと思っています。僕の理解する限り、おじさんはお尻をさわるような真似はしません。きっと何かの間違いだと思います。……… もう一度考え直してみていただきたく、よろしくお願いします。……… 僕たちが言いたいことは以上です。……… 時間をいただきありがとうございました」
 女性は、画面から顔を上げると、美由紀にスマホを返した。
 無言で、所在なげに床を見つめている。
「子供たちにも人気があるんですね」
 女性が力のない声でそれとなく邦夫に話しかけた。先ほどまでの舌鋒は跡形もない。
「全く意外。……… 私にも」
 邦夫の声も鎮まっている。
「美由紀ちゃん」女性が呼びかけた。「宝塚を目指しているんですってね。みんなが応援していていいわね。駅員さんに教えていただいたのよ。がんばってね」
 女性は、椅子から立ち上がった
「……… 結局、私の勘違い、かな。……… まだ、腹は立っているけど、これは犯人に対してね。……… 訴えは取り下げます」
 女性は、制帽から白髪がのぞいている駅員の前に立った。
「いろいろご迷惑をおかけしました」そう言って頭を下げると、美由紀、順子そして邦夫の方へも深く頭を下げ「失礼します」と事務室から出て行った。
 邦夫は帰宅してからも口が重かった。でも、銀行の仕事はすっかり終わったようで安堵した表情であることも確かだった。
「美由紀の試験が終わったら、一度東坂さんところへ挨拶にいかねばならないな」
 邦夫は独り言のようにそう呟いてから順子に言った。
「先方さんの都合を聞いておいてくれないか」 
 
 三月十九日が宝塚音楽学校東京会場の第一次試験日だった。美由紀は集合時間の八時より三十分前に新百合ヶ丘の会場となった大学に入ったが、集合場所の講堂にはすでに四五百人の受験生が集まっていた。持ってきたスリッパに履き替え、仮の受付をする。本当の受付は九時からだ。それまでは立ったまま待っている。周りの人たちが気になる。メークは禁止のはずなのになぜかぱっちりとした目元と華やかな雰囲気を振りまいているのは年が上だからと言うことではなさそうだ。小さな頃から宝塚を夢見、夢は必ず実現すると今はひたすら信じている。不安で泣きそうになるのをこらえるための明るさのようなのだ。そういう人たちが、ときどき美由紀を一瞥する視線を感じる。場違いな子がいる。そんな視線だ。美由紀は、痴漢撲滅運動をしていたときの同級生の視線を思い出していた。あれと同じだと思った。
 九時になり会場の前方で受付が始まった。長い列ができ、受験番号の確認が行われる。受付が終わるといくつもの教室に順番に案内される。そこでレオタードとタイツに着替えるのだ。美由紀はなれない着替えに手間取って、レオタードから頭を出したときシニオンをひっかけてしまった。世話係の音楽学校の生徒さんがそれを丁寧に直してくれた。
 面接時間は三十秒。受験番号、年齢、身長、体重、出身地を言うだけという。一時間が経って、ようやく順番が美由紀のいる教室に回ってきて呼び出しが始まった。
 美由紀も呼び出され面接会場の廊下で待機した。美由紀の前に呼び出された人が会場のドアからすこし離れた場所でこわばった顔をしていた。しかし、会場に入る直前には口角を上げて満面の笑みをみせて一礼をし、ドアの内に消えていった。
 次は美由紀の番だ。前の人が立っていたところに移動し、口角を上げてみた。あんな笑顔にはなれないなと思いながら。そして、頭に中で自分が言わなければならない、受験番号、年齢、身長、体重、出身地を反芻した。しかし、美由紀の番となり面接会場のドアが開いたとたん、緊張で口角を上げることを忘れていたことに気づいた。
 美由紀は一礼をし、ようやく口角をあげた。前に進み、受験番号を伝え「年齢は十五歳、身長は百七十センチ、体重は四十八キロ、出身地は神奈川県です」と言った。
 しばらくして面接者のひとりが、あなたが大事にしているものは何かと訊いた。美由紀は何となくその質問の口調に反感を覚えた。夢、それも宝塚への夢だとか、両親だとか、そんな答えが返って来ることを見越しての質問のように思えた。自分の答えもありきたりなものに見なされるのが腹立たしかった。
 美由紀は答えた。
「おさななじみの友だちです」すこしぶっきらぼうな声になっていた。「私より賢く、しっかりとした意志を持っています。いつも私を応援してくれます。将来は心を研究する人になるんだと言ってます。友だちは同じ歳ですが、私は彼女を少し尊敬しています」
 面接者からの発言はなかった。
 美由紀は、帰路、このときの面接者とのやりとりを何度も思い返した。かすかに抱いた反感の感情が声に出てしまった。面接者はそれを聞き逃さなかっただろうと思いながら。

 第一次試験の翌日は春分の日だった。一昨日に順子が東坂家に連絡して、木田家全員で訪問することを約束した日であった。
 うららかに晴れた午後二時の日差しは汗ばむほどであった。和風の玄関の引き戸を開けて邦夫が来訪を告げると、迎えに出たのは美怜と勝茂だった。邦夫と勝茂が初対面の挨拶を交わすと、広いリビングに案内された。南向きの大きなガラス窓は坪庭に面しており、五分咲きほどの若い桜の木が敷石や芝に淡い影を落としていた。
「一度挨拶にあがらなければと思っていましたが、昨日娘の第一次試験が終わりましたので、遅ればせながら訪問させていただきました」
 邦夫が改めて挨拶をした。勝茂から着席をすすめられ、三人はソファーに腰を下ろした。そこに、秋江が飛び込んできた。
「ユッコ、久しぶり。おじさん、おばさん、こんにちは。……… ユッコ、試験終わってよかったね。どんな感じ?」
 勝茂が秋江をたしなめた。
「まだお出でになったばかりで、お茶も出していないんだから、ちょっと待ちなさい」
「じゃあ、ママを手伝ってくる」
 秋江がさっと背中を見せて出て行った。
 勝茂がにんまりした顔をちょっと伏せるようにして隠し、目だけで邦夫を見、次いで順子を見、いたずらっぽい表情を作った。
「いつも、あのようにあわただしいんです」
 勝茂は声を低めてそう言った。
「いえいえ、大変発想力のするどいすばらしいお嬢さんで、敬服しているんです。それに、つい先だってはひょんな事件に巻き込まれた私を応援していただき、びっくりした次第でして」
 勝茂が破顔して、なぜか赤くなった。
「いやいや、ご不運でしたね」同情するような口調だった。「まあ、ああしたことも得てしてあることですから、注意せにゃならんことですね」
 勝茂の言葉は自戒のようにもとれたが、一方で邦夫への注意ともとれる響きがあった。
 お茶が運ばれてきた。
 秋江はじりじりしたようすで「それで、試験はどうだったの」と美由紀に訊いた。
 美由紀は美怜に向かって頭を下げた。
「その前に、おばさんに報告します。大変お世話になりました。おかげさまで高校受験に合格しました。おばさんは恩人だと思っています。スランプを克服できたのは、おばさんのおかげです」
「とんでもないわ。みんな美由紀ちゃんの頑張りのせいよ。とにかく、高校合格おめでとう。ひと安心ね」
「はい。……… それで昨日は宝塚の第一次試験に行ってきました。待ち時間が長いわりに試験は三十秒ほどの面接試験だけなんです。結果は明日発表になります。周りの人はほとんど年上のようだし、みんな鍛錬を積み重ねたような圧があって、なんだか心細い感じはしました。……… 三十秒で何が分かるんだろうと思っていましたが、みんな緊張しているので、どこかで生地は出てしまうんですね。受け入れられるかどうかは分かりませんが、面接者から『見られた』感じはしました」
「ユッコなら大丈夫よ。スタイル、抜群だもの」
「そうよ。長年宝塚を見てきた私の勘からしても合格ね」
「おい、いいかげんにしないと、美由紀ちゃんが困るだろう」勝茂が間に入るように秋江と美怜をたしなめた。「人事を尽くして天命を待つということだろう。まあ、受験も選挙も同じ心境だな」
 ひとしきり美由紀の受験と宝塚音楽学校の話題で盛り上がったあとで、邦夫が「今日、真斗くんは在宅ですか?」と問うた。「実は、私の端切れの工作物をお見せしたいと思って持ってきました。これは、家族の者も知らない私の世界で、真の理解者は真斗くんだけです」
「真斗、いるはずだよな」と勝茂が秋江に言った。
「お兄ちゃん、いるけど、なんかカッコつけてるのよ。それとも、ユッコがいるんで恥ずかしいのかな。呼んでくるね」
 秋江がリビングを出ていった。階段を駆け上がりながら「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と呼んでいる。「なんだ。うるさい」という真斗の声がする。ばたんばたんとドアの開閉音のあと、二人が階段を下りてくるのが聞こえた。
 真斗が「こんにちは」と言いながらリビングに入ってきた。
 邦夫が真斗と秋江に向かって言った。
「先日は思っても見なかった援軍になっていただいて、ありがとう。おかげさまで誤解を解くことができました」
「とんでもないです。……… 相手の方、ご理解のある方で良かったです。反発を受ける可能性もあったかと思いますが、美由紀さんにきちんと説明してもらったので、僕らの気持ちが伝わったのだと思います」
「それで、秋江さんから美由紀に問い合わせがあり、美由紀から質問された私のこの作品のことですが;…… 」
 邦夫は、足下に置いていたバッグから薄いガラスケースを取り出してテーブルの上に置いた。そこにいる誰もが息を飲んだ。鮮やかで細密な、手が交錯した端切れの絵だった。
「これは、私の心象を描いたもの。自分の手を止めているのは自分の手。自分の欲望と理性の葛藤の絵と言ってもいいかもしれない。金融関係のコンピュータシステムはあらゆる脅威にさらされていて、それからどうシステムを守っていくかを職業としていると、自分もハッカーも余り変わりがないと思わされることがあってね。たとえば誰にも分からない形でお金を集められないかという野望を持った人がいたとする。一億回の取引の中から一円を盗めないかとかね。自動引き落としされる手数料の内の一円をネットの海の中でかすめてこれないかとかね。なりすましみたいな明らかに分かる犯罪ではない、もっともっとディープな犯罪の可能性があって、その検証をしてみたくなる。まあ社会への挑戦だね。私は社会を守る側にいるわけだけど、同時に破る側の立場にも立たされる。そうしないと犯罪が見えてこない。真斗くんは法律を学んでいるというので、法を守ることと破ることの間に立たされることもあるかもしれない。そう思ってね、これはプレゼントとして持ってきたんだ。気に入ってくれると嬉しいんだけど」
 真斗は、自分の開いた口を両手で覆って端切れの絵を見つめていたが、邦夫からの思わぬ申し出に唸ってしまった。
「この作品は……… 貴重過ぎて、私にいただく資格はありません。無理です」
「じゃあ預かっていて欲しい。私が精魂を傾けた作品なので、この作品を真に理解している真斗くんに持ってもらいたいんです」
 その場にいる誰もが口を閉じたまま、真斗がどう返事するかを見守っていた。
 真斗は意を決したように、邦夫を見つめ返した。
「おじさん。一つだけ伺いたいんですが、この端切れは不正な方法で入手したんじゃないですよね」
 邦夫は嬉しそうに口を開けて笑った。
「ユザワヤで万引きしたわけではない。確か金を払ったはずだ」
 真斗の顔色が一瞬変わったように見えたが、すぐに苦笑いとなった。
「シェーレ01は困った人です。……… では、せっかくですので物証として預からせていただき、私の部屋に飾ります。……… ありがとうございます。私の宝にさせていただきます」
 邦夫は満足そうに頷いた。
「もう一つ、これは秋江さんへのプレゼント」
 邦夫がハンケチ大のガラスケースをテーブルに並べた。
「あっ、猫ちゃん。……… えっ、もらっていいんですか。私に?」
「やっぱり嫌ですか?」
「とんでもございません。……… わーい、これ、クララですか?」
「いいえ、名前はアッキー」
「私?」
「そう、似ていると思いませんか」
「ふーん、私はネコオンナか。……… イヌオンナじゃない」
 真斗が横から口を出して、邦夫に断った。
「こいつ、自分の世界に入り込むことがあるんで、気にしないでください」
「まあ、私も大人げないというか至らない点が多々ある人間で、先日も駅員さんにお叱りを受けたばかりなんですが、秋江さんに誤解を受けるようなことを私が言ったばかりにいろいろご迷惑をおかけしたと反省しています。お詫びの印です」
 大きなガラス窓から見える桜の木の影は、早くも敷石を外れたところへ長い影を投げかけていた。
 
 三月二十二日の朝九時半。美由紀と順子は新横浜の新幹線乗り場に立っていた。美由紀は何が起こったのか信じられない気持ちだった。昨日順子とネットで第一次試験の結果を見ていたら、美由紀の受験番号が載っているではないか。それから慌てて旅支度とホテルを予約したのだった。
 新大阪行きの「のぞみ」で行くと宝塚へは午後一時に着く。明日の試験のために下見に行き、それからホテルにチェックイン。第三次試験の合格発表の二十七日まで宝塚に居続けることも想定しなければならず、海外旅行用のスーツケースを持ち出さなければならなかった。
 「のぞみ」が入線した。スーツケースを荷物置き場に固定している内に発車ベルが鳴り、ドアが閉まった。順子がチケットを手に座席を探しに行ったが、美由紀はドアのところに戻って、立ったまま窓外を見た。馴染みのある街並みがあっという間に消え去る。「のぞみ」は風景を切り裂くように速度を上げていく。もしかしたら、これからずっと宝塚で自分は生きるのかもしれないと思うと、胸がしくしく痛み出した。邦夫とも秋江とも誰とも別れたくないと思った。「のぞみ」はますます速度を上げていった。

                             
 
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