第24話 これから ここから   かがわとわ

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「端切アートは、あなたの犯罪行為によって創られたのですね」
「はい」
「絵のパーツに必要な生地をまとっている人物を狙って、切り取り続けた」
「いえ。逆です。呼ばれるのです。そうなったら、切るしかないのです。切るしかなかった服が先にあり、その端切れたちから絵が生まれます」
「呼ばれる?」
「ええ。私にはわかるのです」
「あなたが切り取るのは、すべて女性からですよね」
「猫女でなくてはいけません。犬女はだめです。近くに寄っただけでわかります。猫女の身につけている布を、切り取らなくてはならないのです」
「ネコオンナ?」
「わからないのですか、先生。あなたも猫の耳をお持ちでしょう」
 ──先生と呼ばれて、秋江は自分が白衣を着ているのに気づく。
 目の前の男性は、おじさん……邦夫だとわかった途端に、邦夫の顔がサラサラと崩壊し、女の顔が現れる。──おばさん……順子だ。
 不快と不安が一気に押し寄せ、秋江が立ち上がると同時に、順子が飛びつくように白衣の裾をつかむ。つかんで離さない。嬉しそうに笑っている。
「この布、とても必要だわ。切らなくては」
 ──秋江は、自分の唸り声で目を開けた。心臓がバクバクしている。──夢。夢か。仰向けのまま、汗ばんだ額に手をあてていたが、ようやく枕の下からスマホを出し、時間を確認した。2:47の文字が浮かびあがる。ベッドサイドのリモコンに手を伸ばし、部屋の間接照明を点すと、半身を起こした。何、今の。怖っ。──そうだ。昨日ユッコから聴いた話と、おばさんのことがごっちゃになって夢に出て来たんだ……。

 昨日、二月二十八日。ユッコから「高校受かったよ~」とLINEがあった。「やったじゃん!」と、おめでとうスタンプを連発で送信し、すぐにLINE電話に切り替えた。
「高校のほうは、余裕で受かるところだったからさぁ」
 ユッコの明るい声を聴いて、秋江は安堵した。ユッコは、高校受験の二日前まで痴漢撲滅運動のビラを駅で配った。声を取り戻すために必要だと、親を説得したという。美怜を通じてそれを知った時、ユッコは、どうしても宝塚なのだ、そしておじさんの事なのだと、これまでより強い彼女の意志を感じた
「二日目に、真斗さんと声かけてくれて、ありがと」
「っていうか、お兄ちゃんは毎日ユッコを気にしていたけどね」
「ああ、初日は、私気づかなくて。真斗さん、三日目の夕方にも声かけてくれて、のど飴くれたし、最終日の四日目も」
 声が少し弾んでいる。
「ねえ、何日目に……って、ずいぶんはっきり覚えてるんだね」
「うん! 一日目より、二日目、二日目よりは三日目って声が出るようになったから。その時の、よしっ! て気持ちと一緒に、あったことも覚えてる」
「ママが、最終日に帰って来た時、美由紀ちゃんの声、とてもよく伸びてたわよって言ってたよ。それからは、もういい感じなんでしょ?」
「なんとか」
「ユッコの高校合格祝いで会おうよ。いつにする? 卒業式は十一日でしょ。私のところは十四日だから、その翌日とか」
「まだ、ちょっと待って! 宝塚の試験が終わってから。中学卒業したあとに試験だから、まだ気が抜けない。この先、学校とレッスン以外の外出は、控える。風邪ひいたりしたら、取り返しがつかないから」
「高校受験の手前まで、寒い駅に立ってたくせして」
「だから、あれは声を取り戻す事と……」
「わかった。最終日は、おばさんもいっしょにやってくれたんだよね。おじさんの反応は?」
 秋江は、おばさんも……と言った直後、あの日に目撃した場面がよぎり、胸がざわついた。ユッコは続けて、
「『痴漢外来』って本を、私もお母さんも読んだの。痴漢を依存症っていう面から考えて、治療するにはどうするのか、みたいな本」
 はっきりとした言いように、秋江は面食らった。ユッコもおばさんも、おじさんの行動理由の名前をさがしているのか。
「そう……なんだ」
 返事に窮していると、
「でもね、私もお母さんも、お父さんはこういう痴漢じゃないよねって。なんか、あてはまらないっていうか」
 秋江はなんだか嬉しくなった。──そうよ、おじさんの痴漢の理由なんて、そんなに簡単にわかるはずがない。
「おじさんは、元気?」
 とんちんかんな返しをしてしまった。秋江があれから何度メールしても、電話しても、おじさんは完全無視状態を続けていた。
「元気……って言えば元気というか、変わらずだけど。それよりお母さんのほうが、開き直ったのか、ちょっと明るくなった」
「おばさんが……そう……良かったね。じゃ、ユッコの宝塚試験が終わったら、会おう! 合格、祈ってるから!!」
 と、電話を切ったのだった。

 ──話は遡る。秋江がおばさんを目撃したのは、秋江と真斗が朝の駅前で美由紀に声をかけた十日だ。この日、秋江の学校は開校記念日で、一時限目を使った式典が終わると即下校となり、家には十時半ちよっと前に帰宅した。駅でビラ配りをしてきた美怜は、ばっちりフルメイクのままだった。さすがママと、秋江は半ば呆れ、半ば感心した。
「夕方、またやるからメイクそのままなんだね」
「そうよ。このまま、パッと家を出られる」
「あ、ブラフマドレーヌ! しかも、もう減ってる」
「パパの支援者からいただいたのよ。手を洗って、着替えてらっしゃい。紅茶、淹れとくから」
 自分の部屋に行って制服を脱ぎかけた秋江は、ブラウスのボタンを途中まで外したところで、リビングに戻って来た。
「なに、お行儀悪いわね」
「いいこと思いついた。紅茶じゃなくて、もっとお洒落な飲み物がいいんだけどなって思ってたら」
「で?」
「ママ、これから上島珈琲店に行こうよ。突然あそこの生キャラメルミルク珈琲が飲みたくなった」
「マドレーヌは?」
「それは、帰って来てから紅茶とでいい。生キャラメルミルク珈琲が頭に浮かんじゃったから、私はお出かけ用の服に着替える。ね、ママもメークバッチリだし、すぐ出かけられるんでしょ」
「ここから一番アクセスのいい場所だと、綱島店よ。わざわざ行くような……」
「じゃ、セン北まで出ちゃおう。あそこの上島珈琲なら、駅から直結じゃん。で、お茶したあとモザイクモールに寄って服とか雑貨とか見て、そのあとランチが美味しいお店に入って」
「──狙いは、よくわかったわ。ランチが先がよくない?」
「やだ。まず、生キャラメルミルク珈琲」
「はいはい。ママもあの店の有機……なんだっけ?」
「有機豆乳ミルクコーヒー?」
「それ。久しぶりに飲みたくなったし。じゃ、今から行きましょう」

 センター北駅の上島珈琲店は、駅からから直結したショッピングビルの二階にある。席数は少なめだが、平日であるし、まだ昼前なので大丈夫と思ったのが甘かった。
「まじか。満席だって」
 秋江は、大げさに下顎を落として頭を抱えた。
「しかたないわね。ママ、喉が渇いちゃった。とりあえず、どこかに入りましょう。この上の階にコメダ珈琲があるじゃない。そこでいいわ」
「え~。やだよ。なんのために来たのぉ~。あ~私も何も飲まないで来たから、喉渇いた。もうっ!」
「じゃ、コメダでちよっとお茶して、モザイクモールでショピングとランチ。戻って来て上島珈琲でゆっくり飲むコースにしましょう。その時間なら空いてると思うし、あとは帰るだけだから、満席だったら待てはいいじゃない」
 美怜の提案で決定し、ふたりは三階のコメダ珈琲店に向かった。
ユザワヤと隣接しているコメダ珈琲は、入り口がガラス張りで、店のロゴマーク部分を大きくとって曇りガラスにしてある。
「空いてるかな」
 秋江は曇りガラスをよけて、透きガラス部分から店内をのぞき込んだ。
「こらこら」
「だって、中に入って確認するよりこっちのほうが……あれ?」
 顔をガラスに更に寄せる。
「やめなさい。中の人がこっちに気づいたら……」
 秋江はその姿勢のまま、小さな声で言った。
「ママ。ユッコのお母さんがいる」
「えっ。どこ?」
 美怜もガラスに顔を寄せる。
 おばさんは、知らない男の人と向かい合って食事をしているようだった。男の人が自分の指を口元に持って行ってちょんと指す仕草をすると、おばさんはうつむいてハンカチを口にあてた。おばさんは、地味で耐えてるイメージが強かったのに、やけに嬉しそうに笑っていた。
「四十代だわね」
 美怜が呟いた。
「そうだよ。おばさんは……」
「相手よ」
 秋江がまだ覗いていると、窓際で本を読んでいた女性が、秋江に気づき、ぎょっとしたように口を開いた。
 秋江は美怜の腕をとって合図をおくり、見えない位置にずれた。
「ママ、席、空いてたよ。入らなくていいの? 今日はおばさんに挨拶しないの?」
「いいのよ。コメダはあきらめましょう」
「はぁ!?」
 そのあと、美怜は半ギレの秋江を連れて強引にルートを変え、ふたりが喉の渇きをようやく癒やせたのは、モザイクモールのスタバでだった。春の新作ワンピを買ってもらい、遅めのランチも終わる頃には秋江の機嫌もなおり、
「そろそろ、上島珈琲に行きたいんですけど」
ニコニコと美怜を見上げた。
「そうね。もう、いいかな」
 美怜は腕時計に目をやって、ふう、と息をついた。
「ねえママ、おばさんと一緒にいた人、誰かな」
「さあ、親戚の人とかじゃない? 美由紀ちゃんには黙ってなさいね」
「なんで?」
「ほら、自分は受験で忙しいのにお母さんは……って羨ましく思ったら可哀想でしょ」
 それだけ言うと、すぐさま歩き出した。秋江は慌てて後を追った。
もとのビルに戻り、上島珈琲店に無事入店出来た。ようやく生キャラメルミルク珈琲のカップを手にし、ゆっくり口に含んで、うっとり目を伏せる秋江に、
「そのままCMに使えそうな浸り方ね」
 美怜も、有機豆乳ミルクコーヒーに唇を寄せる。秋江の脳裏に、コメダで見たユッコのお母さんがよぎった。ハンカチを口から離したあとに、照れくさそうな、でもとても嬉しそうな顔をしていた。──おじさんもわからないけど、おばさんもよくわからない。おばさんは、ほんとうは怖い人なのではないか。この説明出来ない、もやもやとした気持ち悪さは何だろう。

 二月と同じく、三月の始まりも日曜スタートだ。昼過ぎ、秋江はリビングのソファーでスマホをいじり、美怜はエアロバイクをテレビを見ながら漕いでいた。真斗が二階から降りてきて、冷蔵庫からコーラのペットボトルを出し、戻る途中で秋江に囁いた。
「部屋に、来い」
 ──うわ。なに? 珍しい。お兄ちゃんが来いってことは……。喉のあたりが、キュッと締まる。美怜をスマホ越しにチラ見する。黙々と脚を動かしつつ、テレビに笑ったりの自分の世界だ。三分くらい間をおいて場を離れ、駆け上がりたいのを抑えて階段を上り、真斗の部屋をノックした。
「見ろよ」
 入るなり、真斗が、パソコンのディスプレイを示した。
「シェーレ01の新作だ」
「──え」
 手の甲を上にして伏せられたこちら向きの手。左側からその手の上に被さるもう一つの手。手と手だけの作品だ。
「これ……おじさんの? いつもと違う。猫じゃないし、色彩も……手の陰影だけ。っていうか、これ、絵?」
「ちゃんと、シェーレ01で今日アップされてる。コメント欄は閉じられているけど」
 真斗が画面を拡大してみせると、秋江は小さく叫んだ。微細にカットされ、犇めくようにびっしり貼られた布群が浮かび上がった。薄だいだい色をメインに、茶色、白、灰色、黒、青、赤、桃色などを使って立体感と陰影が表現されている。
「おじさん、まだ続けてるんだ」
「もしかしたら、今まで使った端切れのそのまた残り布から、集大成みたいな感じで細かく切って創ったんじゃないか──いや、集大成って言っても彼はやめたり出来ないだろうけど」
「これって何かのメッセージかな」
「美由紀ちゃんとおばさんも、これを見るって意味?」
 真斗は美由紀ちゃんという言葉を、ちょっと言いにくそうに口にした。
「おじさんがシェーレ01だと特定出来る前に、おじさんのサイトっぽいと言って、画像見せたことがある。ユッコが覚えていれば、おばさんにも教えてる可能性あるし。微妙」
「美由紀ちゃんに、これ、知らせるの?」
「お兄ちゃん、どう思う?」
 真斗は重なる手の画像を、もとのサイズに戻してまじまじと見つめ、
「知らせたほうがいい。おばさんと美由紀ちゃんに知らせるべきだ。もう俺たちが状況を見極めながら迷う必要はないと思う。駅でおばさんも加わって、美由紀ちゃんと声をあげている姿を見て、彼女たちの覚悟が伝わって来た。このサイト、俺たちは教えなくちゃ」
「うん。ユッコもおばさんも、痴漢に関する本を読んで、おじさんがなんとか治らないかと頑張ってるみたい」
「そんな簡単なもんじゃないだろ。シェーレ01の作品群を全部目にした俺たちなら、わかるよな。相当なもんだぜ。いったい、どれだけの狩りをしてきたのか。どれだけの場所で。秋江の前後で同じ電車や近隣の駅で切り取り被害が発生していないってことでもわかる。もちろん全員が被害届を出すわけじゃなくても、噂は広まるから。秋江、それで前にキレてたもんな。足がつかないように、場所を変えながら布を収集するって、かなりのエネルギーだよ。それを治すってのは……」
秋江は真斗と並んでおじさんの新作をじっと見つめた。下の手は男性の手のようにも見えるし、上の手は女性のようにも見える。両方男性の手のような気もするし、両方女性の手のような気もする。同一人物の両手のようにも──。上の手は、何かを止めようとして押さえつけているようにも見え、添うように優しく置かれているようにも見える。
これも、あのカラオケ店で創ったのかな。それともユッコに知られてしまったから、場所を変えたのかな。あの時、寄り添う二匹の猫を創るおじさんを正面から見つめた。巾着からあふれた端切れの山から、長い指で生地を選んで……。
「ねえ、お兄ちゃん。もしもよ、おじさんの痴漢が病気だったとして、それを治療で治したとして。おじさんは、端切れの作品を買ってきた布で創ると思う?」
「創らないね。創る意味がなくなる」
「私もそう思う。おじさんが治る? ……治ったとしたら、もうおじさんが鋏を手に取る時の魅力みたいなものも……おにいちゃん、会った時に感じたでしょ? 今までの作品から発する凄みみたいなものも、きっと無くなってしまう……というか、もう、創らない。創れない。難しくてうまく言えないけど、芸術って、矯正することによって消えてしまうものがあるよね」
 秋江は、滅茶苦茶な発言をしていると思いながらも、おじさんから鋏と布を使った悪事を取ってしまったら、それはもうおじさんでは無いと強く感じた。
 真斗が、ディスプレイを見つめたまま呟いた。
「面倒な妹だよなぁ」

 三月十四日。秋江の学校の中等部卒業式が、無事終わった。ほぼ同じ顔ぶれで高等部へ上がるので、たいした感動というものは無かったが、式をして証書をもらうと、「区切り」というものをはっきり意識した。美怜は式に出席、勝茂は仕事で出られなかったが、今夜は早く帰るという。勝茂は、明日、日曜の予定を空け、家族でお祝い会のレストンを予約してくれていた。
 夕飯までの間、秋江は自分の部屋に籠もった。受け取ったばかりの卒業アルバムをパラパラとめくっていたが、突としてスマホを掴み、アプリをタップして、去年の写真を表示した。
 十月──ベージュのコートの後ろ姿。……おじさん。これが始まりだった。秋江はその写真をしばし見つめた。
 十二月──ユッコとディズニーランドで、はしゃいでる写真。大倉山公園で、ムースケーキ、手づかみのユッコ。
 明けて一月──初詣で、晴れ着が眩しいユッコ。
 二月──駅前でビラを配っているユッコとママ。声をかけた日に、急いで撮ったやつ。
 ユッコ……変わった。こうして見ると、ユッコの顔は数ヶ月の間に変化をしている。もともとカッコよくて綺麗だったけど、ちょっと甘えが残る顔から華がある顔になり、最近では意志が光る目つきになっている。おじさんの事と、宝塚への強い目標と。それがユッコの面差しをこんなに変えたんだ……。大倉山公園のユッコの写真……。この頃は、ユッコにハートマークのピークだったんだよなぁ。もちろん今も好きだけれど、好きの気持ちが、知らない間に違うものになっている。別にお兄ちゃんがこの先ユッコと付き合っても嫉妬じゃなくて、応援できるし。私もユッコも中学を卒業したけれど。ユッコは宝塚に受かれば遠くに行ってしまうけれど。おじさんは、私を無視したままだけれど。けれど──。
 まだ何も解決していないし、終わっていない。これは区切りであって、終わりじゃない。
この数ヶ月で、自分も変わったと思う。私のスカートを切った犯人は、九十九パーセントおじさんだけど、私の哲学に耳を傾けてくれた最初の他人の大人がおじさん。秘密の創作場所を教えてくれたおじさん。──なぜ? なんで、私に? 
 おじさんの感じている世界、見えている世界はどんななの? 何を求めているの?
 まだ、何も終わっていない。私、ユッコが宝塚一直線なのが羨ましかった。自分のやりたいことが、わからなかった。でも、今回のことに巻き込まれて、自分なりにあがいているうちに見えて来たの。私のやりたいことは──。

「明日のお祝い会、フレンチだから、今夜はスパニッシュで」
 美怜が得意料理のパエリアを、どんとテーブルに乗せた。付け合わせの、野菜のアヒージョ、ローストビーフ、スパニッシュオムレツは、美怜がパエリアをつくる時のお決まりのラインだ。
「おい、ワインを忘れてるぞ。白のペネデスがあったっけ」
 勝茂が、ボトルをとりに立ち上がる。
「親父たちはワインだけど……俺たちのこれ、なに?」
 真斗が泡つぶが立ち上がるグラスを持ち上げる。
「当ててごらんなさい」
 美怜が歌うように言うと、秋江がテイスティングのまねをして、グラスを円を描くように回し、鼻を近づけて香りを確かめてから、一口含んだ。
「もしかしてこれは……梨?」
「正解! 秋江、ソムリエになれるわよ」
「──冷蔵庫に、梨の濃縮ジュースがあったから」
「じゃあ、探偵になれるな」
 すかさず勝茂が続く。美怜が自慢気に、
「梨ジュースを炭酸で割ったの。見た目、スパークリング白ワインぽくない? ほら、あまり飲んじゃだめよ。乾杯しましょう。あなた、音頭とって」
 勝茂の「秋江、卒業おめでとう」のあと、美怜が高らかに、真斗がぼそっと声を重ねた。美怜がパエリアの取り分けにかかる。
「では、秋江姫に挨拶をしてもらおうか」
 ふざけて偉ぶった声音で勝茂が言うと、
「堅苦しい。挨拶なら、明日でいいわよ」
「だよな」
 今度は美怜も真斗も同じトーンで、秋江をかばうように発した。
 カタン。椅子を引いて、秋江が立ち上がった。
「明日、レストランだと言いにくいから、今、言う」
 勝茂も美怜も真斗も、驚いたように秋江を見た。三人の顔に「予想外」という文字が浮かんでいる。てっきり、「え~やだよ~」が返ってくると思っていたようである。
 秋江は、すう、と軽く息を吸うと、
「パパ、ママ、おかげで私も中等部を無事卒業することが出来ました。今まで育ててくれてありがとうございます。これからもよろしくお願いします。ついでにお兄ちゃんも、これからもよろしくです」
 美怜の大きな瞳が潤んでいるのを見て、秋江は焦る。「ついでって何だよ」と、真斗が呟いている横で、勝茂はおおらかな笑顔になっていた。
「──それで、ですね」
 軽く咳払いをしてから、秋江は家族をぐるりと見回した。
「私、将来の夢が決まりましたので、発表したいと思います。口に出したほうが、簡単にあきらめないと思うので」
 三人とも、無言で秋江を見つめている。
「私がなりたいのは、ソムリエでも、探偵でもなく、心を研究する人です」
「それは、心理学者ってこと? 精神科の医者? カウンセラー?」
 美怜が訊ねる。
「そこのところまでは、決定出来てないから、これから本を読んだり情報を集めたりしてどれを自分がやりたいのか、模索していきます」
 現時点での決心を秋江が告げると、
「別に今のお前の発言、俺は驚かないけど」
 真斗が言い、続けて、
「そっち方向に進みたいなら、勉強を相当頑張らないとな。今のお前じゃ……」
「わかってる」
 秋江が、ちょっと口を尖らせる。
「まあ、いいじゃないか。パパは秋江がこんなに成長してくれて、とても嬉しいぞ。ついでに言っとくと、たとえば心を扱う仕事と言っても、論理、実証に基づく科学的な研究論文を書くことに集中したいのか、治療を必要とする人を助け、寄り添う実践を重視したいのかだな──」
「あなた、まだそんな難しいことは」
 美怜がいなすと、秋江が、
「私、暗記してるよ。パパの人生訓。目標を決めたら、結果に結びつく行動をする」
 真斗が続く。
「頭を使い、人脈をいかす。常に未来から現在やるべきことを見るべし」
「お。ふたりともよく覚えたな」
 満足げな勝茂に、真斗がニッと笑って、
「後半、親父がこの先国政に関わろうとする野望がよくわかる」
「さあさあ、冷めないうちに食べましょう。とにかく、ママも応援するわ。真斗もでしょ?」
 「まあね」と、真斗が頷く。秋江が着席し、食事をしながら会話は続いた。
「秋江は、木田さんのことがあったから、心の研究に興味を持ったの?」
 美怜が、さりげなさを装って声をかけた。勝茂と真斗のフォークも一瞬止まる。
「そうだよ」
 はっきりとした秋江の答えに、これまでの家族間の暗黙の了解、全員が集まって話題にすることを避けてきたものが、解かれた。
「私が心の仕事に興味を持ったのは、おじさんのことがあったから。おじさんみたいな人には、何が見えているのか。何を求めているのか。楽しいのか。辛いのか。おじさんもそうだけど、おばさんもよくわからない。人って不思議だよね」
 おばさんもよくわからない、のところで、勝茂が美怜に視線をギロリと送り、美怜が慌てて首を小さく振ったのを、秋江は見逃さなかった。──美怜は勝茂に目撃したことを話したらしい。
「いいか、秋江」
 勝茂の声が硬くなる。
「たとえば、お前が友だちから、昨日帰り道で見かけたけど、凄く機嫌悪そうだったねと言われたとする。実際のところは、頭痛が始まり、早く家に着きたいと顔をしかめていたということだってあるだろう? 友だちには、そう見えただけだ。誰だって、自分のフィルターを通して人を見ている。世界を見ている。木田さんご夫婦に興味のフィルターをかけるのはやめなさい」
 美怜は、うつむいてアヒージョをつつき、真斗はパエリアのおかわりを鍋から皿に移している。
「秋江、パパにもう少し難しいことを言わせてくれるかな。秋江が、人の心に関わる仕事を目指すなら、それは心に関わるどんな職種でも、おまえの心を解明してやろうとか、治してやろうとかより先に、相手がどんなに不可解でも、まず寄り添う気持ちを大切にしなきゃだめだ。いいかい?」
「──うん」
「言い過ぎたな。痴漢被害に遭ってから、わからないことばかりに翻弄されて。怖かったろう。辛かったろう。ストレスも多かっただろう。辛いのに、よく頑張ったな。まあ、パパの今の言葉は、ちょっとしたアドバイスだから。美由紀ちゃんともずっといい友だちでいなさい」
 勝茂のがっしりした腕が伸びて、おおきな手のひらが、秋江の頭頂部を優しくグリグリした。
 ──パパの手は、あったかい。とても、あったかい。秋江は胸が熱くなるのを抑えて、
「今度のことは、私の新しいスタートのきっかけだもん! ありがと、パパ。心して頑張ります。……ちょっと、お兄ちゃん、パエリア残しといてよ!」
 美怜が、もう一回乾杯しましょうとグラスをあげた。
「秋江のこれからに、乾杯!!」
 高い声、太い声、ちょっと照れた声がリビングに響いた。

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