第23話  笑顔   黒崎つぐみ

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2月8日午後、秋江の母美怜が木田家にやって来た。暖房の効いたリビングから、美怜を玄関の外まで見送った順子の頬に、立春を過ぎたとはいえ身を切るような風が吹きつける。その風の中をピンクグレーのチェスターコートを着た美怜が振り返らずに颯爽と歩いて行く。順子は、美怜の後姿が曲がり角を曲がるまで、いつ振り向かれても会釈をする体勢で見送っていた。結局曲がり角でも美怜の視線はこちらに向けられることはなかった。順子は見えなくなった美怜に一礼すると、玄関のドアを開けた。冷たい空気が順子の体に纏わりつくように家の中まで入ってきた。テーブルに置かれた手土産の生チョコ大福を見つめたまま、数分前まで美怜の一言ひとことに気押されて、その赤い唇から次にどんな言葉が飛び出すのか、ビクビクしながら対応した小一時間を反芻してみた。
 秋江は痴漢に遭った日のことを全部美怜に話したのだろう。美怜が邦夫を痴漢の犯人と疑い、真偽を自分の目で確かめる目的でやって来たことは明白だった。しかし、邦夫を非難する言葉は一言も発しない。それどころか、自分の子どもたちが邦夫に対して疑惑の目で働きかけた非礼を詫びた。その徹底した態度は潔く、明るい。気品さえ感じられた。美由紀が痴漢の被害にあったと知るや、痴漢撲滅運動への参加を要請するあたり、さすがに県会議員の奥様だと、順子はその押しの強さに、自分にはない覇気のようなものさえ感じたのだった。いっぽう順子は「お父さんは痴漢?」と美由紀が父に聞いたときから疑いの目で邦夫を見ていた。邦夫はこの家の中に居場所はあったのだろうか?
 見回すと邦夫の姿はない。順子が知らなかった真斗と夫の関係も聴きたかった。ハギレ制作ってなんだろう… 。夫にそのような趣味があることすら知らなかった。どのような作品なのか、見たいと思った。それを見れば夫を性犯罪者という目で見ていた日々が嘘のように消えるかもしれない。犯罪を重ねているかもしれないという怯えから早く救われたかった。美怜は邦夫に対して直接責めることはなかった。しかし少なからず牽制するような威圧感を邦夫は感じたのではないか。事が公になりそうな今、一番そばに居てあげられるのは自分しかいないと順子は思った。
順子は熱い紅茶を淹れなおすと、生チョコ大福の赤い箱を開けた。10個入りの箱の中から小粒の菓子を2つ小皿に取り、紅茶と一緒にお盆に載せる。2階に居るであろう邦夫と話したかった。寝室のドアをノックする。邦夫は寝室の隅に書斎代わりに置かれた机に向かい、ノートパソコンをいじっていた。ノートパソコンを閉じると
「どうした」
と、穏やかな声で順子に向かう。
「ちょっとお話していい?」
紅茶とお菓子を机に置いた。
「東坂さんが言っていたことか?」
少し、疲れた表情で椅子をターンさせ順子と向き合った。
「秋江ちゃんと真斗君に会ったの? 」
「ああ、真斗君と同じ趣味だったんでね」
「どんなもの、作ってるの?」
「今、ここにはないんだ」
「見せられないの?」
「そんなこともないんだが… 」
寝室を見渡すと、以前より広く感じた。順子はパッチワークの仕事に追われ、納期が迫ると1階の和室でそのまま眠るようになった。今は2階の寝室は邦夫一人で使っている。
「この部屋、広いわね」
「そうだな、君はパッチワークに没頭しているからね。もうずっとこの部屋で寝起きしてないしね。僕も自分の仕事部屋が欲しいなあ」
面と向かって核心を突く勇気を美怜にもらったような気がしたのだが、邦夫ののらりくらりと話をかわす態度にこれ以上踏み込めなくなってしまう。
「今度、見せてね。あなたの作品。私、見たいわ」
「君のパッチワークほどじゃないさ」
 邦夫は生チョコ大福をフォークで刺すと口の中に放り込んだ。
「おお、まったりと口に残るなあ、あのおばさんみたいだ」
「秋江ちゃんのママをそんな風に言うもんじゃないわ」

あの日から、順子には自問自答の日々が続いていた。邦夫をもっと知りたくて、性犯罪に手を染める人々の事や、立ち直るための方法などを自分なりに調べていた。痴漢や強姦などの性犯罪者は幼少期に父親の母親に対するⅮⅤを見て育った者が多い、というデータ-があるそうだ。被害者の人格を無視いているからこそ、一方的な性衝動を押し付けたりするのだ。母親の人格を認めず、暴力で支配する父親を見て育つと、女性は皆そういう扱いを受けても抵抗しないものだと認識してしまう男性が、大きくなって他人に対して犯罪と気づかずに痴漢をする例が多いという。いくら本やネットで読んでも、順子にとってそれらの例は邦夫とはかけ離れたことのように思えた。邦夫は厳しい母親に育てられた。ピアノや勉強も行き届いた母親の管理のもとで習得してきた。邦夫がピアノを弾き始めるときに鍵盤に置く指が震えるのも、母の厳しい指導が怖かったためでもある。暴力的な父親像どころか、父親の影が薄いと感じるくらいだ。結婚前も結婚してからも邦夫に暴力を受けた記憶はない。本やインターネットにあふれる性犯罪者の傾向はどれも邦夫には当てはまらなかった。

「ただいま~」
階下で美由紀の明るい声がした。いつもより少し早い。きょうも声楽のレッスンはできなかったのだろうか。順子が階下へ降りていくと、美由紀が生チョコ大福の箱に手をかけていた。
「手、洗ったの?」
「いっけね~」
 美由紀は首をすくめて洗面所へスキップする。
「なあに、それ」
美由紀のおどけた言葉遣いに順子はくすぐられるような懐かしい気持ちになった。
「これアッキーのおばさんからでしょ。そこで会ったもん」
明るい目は、生チョコ大福のせいだけでもないらしい。
「アッキーのおばさんと約束したんだ。明日から4日間、駅前に立つことにした」
「えっ! もうすぐ受験でしょ?あと1週間もないのよ。駅前って『痴漢撲滅運動』って、あれ?」
「そうだよ。大丈夫だよ。公立は自信があるんだあ」
「お父さん、なんて言うかしら」
「知らない人の前で声を張り上げると、声が出る気がする。痴漢は怖がっているだけでは駄目なんだよ。前を向くことにしたって言ったら、きっと許してくれるよ」
意外にあっけらかんとした美由紀の態度に、順子も美怜に任せてみよう、という気になっていた。
しかし、順子にとっても朝と夕方、一時間ずつ、受験生の美由紀が寒風にさらされるのは心配事がまた一つ増えるだけだった。すべてはせっかく前を向こうとしている娘のため、と自分に言い聞かせ、夕食時には邦夫を説得する側に廻った。邦夫は
「美由紀にそんなことをさせるなんて、あの東坂って人は…」
と怒りを露にしたが、順子の
「被害者の親なのよ、あなたは。美由紀に『もっと強くなれ』って言ってたじゃない!」
というひとことで唾をゴクンと呑み込んだ。そのあとも「一日で充分じゃないのか?」「君も一緒に行くのか?」といろいろ順子に聞いてきたが、美由紀の意志の固さに、苦虫を噛みつぶしたような顔で認めざるを得なかった。

次の日は日曜だった。6時前から美由紀が支度する音が聞こえてきた。順子はそれより前に目が覚めていた。お湯を沸かし、トーストとヨーグルトと紅茶だけの朝食を用意した。一緒に食卓に着くと、やや緊張気味の美由紀の唇の上にヨーグルトが付いている。「ほらほら」と言いながら順子は自分の唇の上を指差し美由紀に教える。
「出かける前に鏡見てね」
 そう言い終わらないうちに、美由紀は「時間に遅れちゃう」と駆け出して行った。これから知らない人の好奇の目にさらされるのだ。順子は美由紀が出かけると、自分も薄く化粧をし、駅へと向かった。美由紀には気づかれないように見守りたかった。美由紀は美怜とは少し離れた位置でビラを配っていた。最初は小さな声しか出ていなかったが、通勤客が少ない日曜というのが幸いしたのか、声が出るようになるのと、ビラを受け取ってくれる人が増えていくのとが相乗効果を奏して、美由紀の表情も明るくなっていった。「かわいそうに、この子は被害者なの?」と顔を見ていく人もいるにはいたが、「頑張ってね」と言いながらビラを受け取ってくれる人もいて、順子は安堵するのだった。大きな声で見本を示してくれる美怜の存在も頼もしかった。20分ほど見ていたが美由紀に気づかれても、と思い、家に帰った。家では邦夫が一人、トーストをかじっている。
「美由紀、頑張ってたわよ」
それだけ言うと、順子は洗濯機を回しに洗面所に直行した。

月曜日、痴漢撲滅運動2日目。6時半から1時間、美由紀は駅で大きな声で呼びかけているだろう。しかし、きょうは平日で通勤客が昨日よりは多いはずだ。人々の後ろ姿の中に、美由紀と美怜の顔だけがこちらを向いて対峙している姿を思い浮かべた。高架の線路の上を電車が通過して行く。美由紀の声がかき消される。電車が行って、次の電車が入って来るまでの静かな時間に意外に大きな声を出していることがわかる。昨日も「電車が来る時は声を出さなくてもいいのよ」と言ってやりたかった。
「痴漢撲滅運動にご協力くださ~い。痴漢は犯罪で~す」
 順子は、駅から離れているこの家までその声が聞こえて来そうな気がして、切なくなった。
7時に家を出る邦夫は美由紀の姿を目にするはずだ。美由紀を不憫に思わないのだろうか。
美由紀はビラ配りが終わると、一度、家に帰り、カバンを持って学校へ行く。
「お父さんに会った?」
帰って来て、登校の支度をしている美由紀に聞くと
「わかんない。気が付かなかった」
 という答えが返ってきた。
「学校の先生とか、友達とかに会うでしょ?」
「うん、教頭先生と、2年の学年の先生はアッキーのお母さんと話してた」
学校の方が家より駅に近かったため、家に帰る途中で同じ中学に通学する生徒とすれ違うことになる。通勤のため大倉山駅を利用している教師もいて、美由紀の姿を見ると驚くだろう。職員室や教室で問題にならなければいいけど…。順子は少し気になったが、明日は建国記念日だ。そしてその次の日が最終日。こうなったら最後まで完遂して欲しい、という思いが沸いて来た。

バタバタと美由紀が学校へ行ったあと、順子は少し肩の荷が下りたような気がしていた。美怜に託したことは間違いではなかった。うつうつと手仕事に逃げるようにしてパッチワークを作り続けていた日々とは違う自分になれそうだ。納期が今日だったとパッチワークの作品をまとめ、田辺プロダクションの鈴木に電話をした。鈴木は11時に都築センター北駅のユザワヤ横のコメダ珈琲で待ち合わせをした。前回届けた作品の倍の分量の重さがずっしりと紙袋の中で折りたたまれていた。店に着くと鈴木はすでに珈琲を飲んでいた。隣の席にはまた紙袋が置かれている。
「何か、いいことありました?」
鈴木がいきなりそう切り出した。
「いえ、そんな風に見えますか?」
「いや、お顔が明るいです」
順子は、少し照れたようにうつ向いた。
「大変だったでしょう?量が多かったから」
「いえ、ほかにすることもないので。お金にもなりますし」
「そのことなんですけどね。ちょっとご相談が…」
「何でしょう?」
順子は不安げに鈴木を見た。
「売れているんですよ。TKBの岡本希恵の作品ということでインターネットを通じて『希恵の部屋』という売り場を設けさせてもらいました。こちらもあなたにお支払いしているのは諸経費ということで落としていたんです。でもこんなに売れるのは作品の質が高いというのもあると思うんです。舶来物の生地ですし、何よりあなたの仕事が丁寧だ。これからは岡本希恵プロデュースということで売ってもいいと思うんです」
「それはどういう…」
「岡本希恵がデザインを考案した、ということだけでも、物がいいと売れると踏んだのです。アイドルの世界では推しメンと呼ばれる、いわゆるグループの中でも僕はこの人のファンだ、というのがあるんですよ。顔が大きく印刷された団扇とかあるでしょ。売れた枚数で人気度がかなりわかります。センターになる子を選挙で選んでみたり、その選挙権をCDを買った人に与えたり。ただ、このパッチワークに関しては購買層が違うんです。男性より圧倒的に女性に売れています。実用性があるのと、女性の趣味に一致しているんだと思います。実際に岡本がデザインしたものでなくても、そこは適当に…」
 順子は鈴木が何を言おうとしているのか、測り兼ねていた。
「うちの社長がね、『希恵の部屋』いいんじゃない、って。試験的にあなたに作ってもらっていることを話したら、その人雇えないかって」
「え?私が社員?」
「初めは契約社員として、作る方とデザインなど考えてもらいたいですが、ほかの人に作ってもらうくらい売れてきたら、作り方の指導とかもお願いしたいんです」
 ただ、黙々と手を動かし続けてきた順子にとって、指導とか企画とか、自分にできるのだろうか、と不安になった。今まで専業主婦として、邦夫の収入をやり繰りして生活してきたが、この2か月の間に鈴木からもらう手間賃は、何かに投資する意志を持ったお金として、わずかながら順子の支えとなっていた。
その反面、アイドル岡本希恵の作品、と偽って売ることに抵抗がなかったわけではない。社会的な規範を無視していることは暗黙の了解だ。
 契約社員になれば、もう偽らなくてもいいのだろうか。例えば撮り鉄と呼ばれる鉄道写真を撮る人たちの中には、いいポジションにカメラを置くために、他人の土地や立ち入り禁止の区域に押し入ってしまう人がいるという。社会規範や常識を乗り越えてしまっていても、ファインダーを覗いていると気が付かないらしい。いや、気が付いていても法を犯しても手に入れたい一枚を追求してしまうのだろうか。自分も社会的な規範から逸脱しているところでお金をもらっている。お金をもらっている自分の方が、より汚い気がしてくる。まだ趣味の域で美を追求して規範を無視してしまうことの方が罪として軽い気がした。邦夫と撮り鉄が重なる。美しい1枚を追求するあまり、他人の服の生地を切り取ってしまったのだとしたら…。偽物を作ってきた順子は邦夫に顔向けができない気がした。
 鈴木は考え込んでいる順子を待ってくれていた。
「わかりました。考えてみます」
仕事の内容は大っぴらに言えなくても、契約社員になることで仕事を認めてもらえたら、社会に踏み出す一歩になるかも知れない。
「珈琲冷めてしまいましね。ここってお昼も食べられるんですか?」
鈴木はそう言うと、メニューを手に取って眺めている。
「お腹すいちゃったなあ。ちょっと早いけど…なんか食べていくかな。あなたもどうですか?」
「ここのシノワールっていうの、一度食べてみたかったんです」
「結構、美味しそうなランチありますね。シチューもある…」
「珈琲とセットで頼む方がお得なんですね」
「きょうは奢りますから、お得とか考えなくていいですよ」
「じゃあ、やっぱりシノワール」
「なんだ、安上がりな人だなあ」
順子は心が華やぐのを感じた。
「初めてだなあ、あなたの笑顔」
「そうですか?」
順子はシノワールの生クリームが口の周りにつかないように気をつけて食べた。それでも鈴木が「ここ」と自分の唇の左上を指して行ったときは、慌ててハンカチで口を拭った。帰り際、
「もうすぐ娘が受験なんです」
「合格お祈りしていますよ」
初めて家族のことを話した。ひょっとしたら鈴木はもう家族構成くらいは調べているのかもしれない。それ以上家族の事には触れず、
「お嬢さんの受験勉強があったから、あなたも針仕事に没頭できたのかな?」
 とひとこと言ってシチューを完食し
「うまかった」と席を立った。
「ゆっくりしてください」と順子が席を立とうとするのを手で制した。
「これ」と紙袋を指差した。そこには舶来物の生地と白い封筒が入っていた。

美由紀が駅前でビラを配る最終日。順子は美由紀と二人で参加することにした。駅までの道を二人で歩くのは久しぶりだ。日陰の柔らかい土には霜柱が出来ていた。しか朝陽が当たる道端にはもうイヌフグリが咲いている。やっと登って来た太陽がそこにだけスポットライトを当てていた。
「あっ、お母さんが好きな花」
「よく覚えていたわね」
「土筆はまだかな?」
「そうね。昔はよく採ったわね」
とりとめもない話をしながら歩く道。二人の息が白い。
「昨日ね、アッキーのママにのど飴もらったの。そしたらね、アッキーのお兄ちゃんも夕方来てね、『ハイ』って同じ梅のど飴。それも袋で。どんだけ好きなんだろうね、この飴」
美由紀が嬉しそうに飴を見せて笑う。普通の中学3年生だ。順子はホッとした。
「あのね、お母さん。沢山飴もらったでしょ、だからお母さんにあげようと思って昨日部屋に行ったの。そしたらお風呂入っていたみたいで…。お布団の枕元に置いておけばわかるかな、って部屋に入ったら、見つけちゃった」
「何?何なの?」
「本。『痴漢外来』っていう本。私も図書館でちょっと前に読んだ。さすがに恥ずかしくて借りられなかったから、少しずつ図書館で読んだの」
「そう、お父さんの事、心配してくれたんだね」
「病気みたいになかなか治らない人もいるって」
「依存症っていうのよね」
「でもあの本読んでいると、お父さんはこういう痴漢じゃないような気がしてきた」
「あなたもそう?」
「おかあさんも?」
「そうなの。じゃあどうして?って今度、思い切って聞いてみようか?」
「お父さんどんな顔するのかな?この本、お父さんのベッドの上に置いておくとか」
美由紀は悪戯っぽい目をくるくると動かした。
「そうだね。もしお父さんがやめたくて、それでもやめられないなら、こんな解決法もあるんだよ、ってね」
そう言いながら、順子は邦夫は初犯だったのだと自分に言い聞かせた。たまたま魔が射したのだ。そして「やめて欲しい」と美由紀と二人で訴えることでもう二度と犯罪行為に走らなくなるのだと。
二人で歩くと、駅までの道は近い。こちらに向かって手を振る美怜が見えた。

美怜に挨拶をすると、邦夫に許しを得たのかと聞かれたが、日に日に明るくなっていく娘を見ていると、たとえ邦夫が反対しても順子は来ずにはいられなかった。痴漢撲滅運動をすることで美由紀は着実に声を取り戻しつつある。美由紀の良く伸びるアルトの声は、もう美怜の声に引けを取らなかった。順子は駅に向かってくる通勤客にお辞儀をするのが精いっぱいだったが、次第に「お願いします」と発声できるようになった。今日が最終日である。駅に向かって歩いて来る人の顔をまっすぐ見ることが出来なかったが、7時を過ぎた時、邦夫が駅に向かって歩いて来るのが見えた。思わず美由紀の顔を見た。美由紀はまだ気づかないのか、微笑みながらビラを手渡している。美怜の手からより、美由紀の手からビラをもらっていく人の方が断然多かった。美由紀は順子の視線に気づくと笑顔になった。美由紀も父親に気づいたようだ。邦夫は足早に通り過ぎたが、美怜に向かって会釈をした。話しかけようと近寄った美怜の前を駅に走り込んでくる高校生が横切った。駅の構内放送が電車到着のアナウンスをして、邦夫は改札口に吸い込まれて行った。
7時半、ビラを配り終えると、「じゃあ、夕方また」と挨拶をし、家路を急いだ。
「お母さん、私、図書館で『痴漢外来』堂々と借りられるよ。今ならきっと」
美由紀が笑顔で言う。
「あ、借りなくてもいいんだよね。お母さんあの本持ってたっけ」
「私だって、買う時本屋の店員さんにジロジロみられると恥ずかしいから、遠くの駅の本屋まで行ったんだから」
「へえ、どこで買ったの?」
「都築のセンター北駅」
「どうして、そこなの?」
「ふふふ、今度話すわね。ほら遅刻しちゃう」
「なんか、お腹すいちゃった。リンゴ食べてから学校に行きたい」
「じゃあ、急がなくっちゃ」
小走りになった二人と、駅に向かう沢山の人がすれ違って行った。

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