第22話  約束   芦野信司

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 美怜は秋江が語る去年十月に起きた痴漢事件の真の姿に聞き入った。電車に美由紀の父の邦夫が乗っていたことも初めて明かされたことだった。電車の中で痴漢に脚を触られたこと。秋江がホームで転んだ時、邦夫に声をかけられたこと。邦夫の鞄から端切れを貼り合わせた猫の絵が落ちたこと。その後学校でスカートが切られていることが分かり、邦夫が怪しいと思ったこと。
 秋江が美由紀にそのことを話して美由紀が邦夫に問いつめたということを聞いたとき、美怜は両目を瞑って額に手をやった。
「それで?」 
 邦夫が誤解だと言っていること。下校の電車で偶然あったときも濡れ衣だと言われたことを秋江は話した。しかし、カラオケ店までついていったことまでは話さなかった。ただそのとき以来、美由紀も母の順子も邦夫に対する疑いを持っているようだとは伝えた。
「まだ、何かあるわね」
 美怜の声は遠雷のように響いた。
 秋江が珍しく言いよどんで、しまったという顔をしている。
「何よ。秋江らしくもない」
 秋江はぐずぐずした態度で、真斗から口止めされていたんだけどと断りながら、真斗と一緒に邦夫に面会したことを告白した。
「真斗まで絡んでいるのね」美玲の声が冷ややかだ。
 秋江は、真斗が邦夫に会ったのは、趣味の端切れ制作が共通であるうえ、邦夫がネットの斯界では神のごとき存在だからということが分かったからだと断った。でも、目的はそれだけではなく、邦夫が秋江のスカートを切り取った犯人であるかどうかを糺すことだったと言った。
「それで、先様は何とおしゃったの?」
「証拠がないでしょって。からかわれているような感じ」
 美怜は、ソーサーの上のコーヒーカップの取っ手を右のひとさし指で右へやったり左へやったりしながらもてあそんで聴いていたが、戯れのように口元へ運び、温くなった黒い液体をわずかばかり口に含んだ。カップをソーサーに戻した。
「それで今頃になって、秋江が私に話をするのは、何を期待してのことなの?」
「知りたいの。本当のこと」
「本当のことって、美由紀ちゃんのお父さんがあなたのスカートを切ったかどうかってこと?」
「それに、痴漢したのかっていうこと」
「それを本人に言わせることを私に期待するの?………それはムリ。あなた方はまだ子供だから、そんな突拍子もないことを尋ねることができるかもしれないけど、そんな失礼なことを先様に言えるわけがないでしょ。変な噂でも立ってごらん。笑われるのは私の方よ。パパの評判にもさしつかえが出てくることも充分注意しないと。………真斗なら分かっていると思ったけど、案外妹に弱いのね」
 美怜は、目を伏せたまま口角を上げた。それから、やおら椅子に座り直し、秋江の方に顔を差しのべた。
「もし、パパや真斗からチカンされたと美由紀ちゃんに言われたら、あなた、どうするの?」
「そりゃあ、徹底的に問いつめるわよ。絶対に許さない。ママだって、そうでしょ」
 美怜は鼻をふんとならした。
「じゃあ、パパや真斗が『はい、私は痴漢です』って言うと思う?」
「吐くまで問いつめてやるから、大丈夫」
「じゃあ、本当に痴漢じゃないとしたら?」
「認めないんじゃない」
「でも、あなたは問い詰めるんでしょ」
「怪しかったらね」
「ということは、いくら本人に聞いても本当のことは分からないということね。あなたが疑っている限り、納得のいく答えは『私は痴漢です』以外はないということじゃなくって?………私なら、徹底的にパパや真斗を信じるふりをする。それりゃそうよ、真実とか誤解とかとは関係ない。そんな不名誉なことが東坂家にあってなるものですか。ただし、そんな噂が立ったこと自体が問題ですから、そこは徹底的に調査する必要があるわね。美由紀ちゃんのお父様だってきちんと社会的に責任ある立場の人でしょうから、スカートを切ったとかチカンしたとか、だから私が悪うございましたなんて言わないわよ。あんまりうるさく言われると、からかいたくなるのも無理はないわね」
「ぎぇぇぇぇぇい、ショックー。何よ、ママったら」
 秋江は椅子から立ち上がって、テーブルに身を乗りだしている。「私のやってきたことを、全否定?………ひどい」
 秋江の顔が紅潮している。
「否定?………そうでもないわよ。自力でよくやったじゃない。でも、方法が私と違うわね」美怜はすまし顔で生チョコ大福の箱を見やった。「もう一個食べようか、どうしようか、これは問題ね。………秋江は?」
 秋江は、拍子抜けして椅子に腰をおろした。
「………いらない」
「そう………私はいただこうかな」
 美怜は、フォークを使い一口サイズの生チョコ大福を自分の前の銘々皿まで運んだ。それを二つに切り分けると、フォークで刺してその一つを口に含んだ。口を閉じたまま噛むので、鼻の下から顎の部分にかけての皮膚が大きく延び縮みする。秋江はそんな美怜の口元を見ていた。
「それでも、あなたは、美由紀ちゃんのお父さんが犯人だって思っているのよね。それって、あなたの直感?」
 美怜は残りの半分を突き刺そうと狙う一方で、秋江の目を一瞥した。
「そう」
「じゃあ、犯人の可能性、大ね。………私も会って見るわ」
 秋江が慌てて立ち上がった。
「だから………すぐに行動しないって約束したじゃない」
「もちろん、先に電話をして、予約を入れて、それで会って見るわ。問題ないでしょ」
「あー、もう。………しかたないか」
 秋江は口ではそういっても、愁眉を開いたような穏やかな表情になった。
「あー、悔しいから私も食べよっと」
 秋江はチョコ大福を指で摘んでそのまま一口で食べてしまった。
「まあ、何て食べ方なんでしょ」美怜の細い眉が立って、そのまま笑い顔に変わった。「ところで、美由紀ちゃんはもうすぐ受験だわよね。痴漢事件のショックから立ち直ったかしら?」
 秋江はまだ口をもぐもぐさせていた。すっかり冷めたコーヒーを一口含み口をさっぱりさせながら「私も心配なの」と言った。「だって、試験日は来週の金曜日なのに、声が戻らないらしいの」
 
 美怜がピンクグレーのチェスターコートに身を包み木田家の玄関に立ったのは、秋江の告白を受けた翌日の二月八日の午後だった。土曜日で邦夫の在宅を確認しての訪問だった。美由紀が音楽スクールに行って不在であることも分かっていた。
 玄関のドアを開けた順子に対し、きれいに結い上げた頭を何度も下げてお辞儀をしながら「年末にお会いして以来ですね」と愛想笑いをした。「これ、つまらないものですが、秋江が大好きな生チョコ大福でして、美由紀ちゃんも好きだと良いんですが」
 美怜はけたたましいほどの大声で挨拶をする。順子は、すっかり気圧されて手渡された小さな紙袋を両手に持ったまま、美怜をリビングに案内した。
 リビングには、邦夫が立ち上がって美怜を待っていた。
 先に口を開いたのは美怜の方だった。
「まあまあ、はじめてお目にかかります。いえ、もしかしたら秋江が小学生のときお会いしていますでしょうか、運動会とか、参観日とか、卒業式とか。………でもね、子供たちが中心ですから、ついついお見逸れしちゃいますわね。………奥様にはお目にかかるチャンスがあるのですが」
 美怜は、そう言いながら順子の方を見やり頭を下げた。順子は、同意していることを示すために笑顔で二度ほど頷いた。
「いえいえ、やはりはじめてでしょう。私は美由紀の小学校の行事にはほとんど行かなかったものですから。………でもかねがねお噂はお聞きしていましたから、はじめてのような気がしませんね。まあ、どうぞ、おかけ下さい」
 邦夫が機嫌よく美怜にソファーを勧めた。
「それはそうと、特に私にご用とお伺いし、大変驚いているんですが」
 邦夫は愉快そうに美怜を見た。
「ええ、お忙しいところ本当にご迷惑だと思うのですが、子供たちがご主人様に対して大変失礼なことをしたということを聞き及びましたので、本来は手前どもの主人ともどもお詫びに上がらなければならないところなんですが、どうしても日程が会わなかったことから、私一人で参上したわけでございます。秋江だけでなく真斗までとんでもない言いがかりを申し上げたそうで、お腹立ちのことと思いますが、どうぞお許し下さるようお願いいたします」
 美怜は豊かに結い上げた髪をゆっくりと下げた。瞬間、邦夫の表情を読むための一瞥を送った。
 邦夫は手を伸ばして、美怜が頭を下げるのを思いとどまらせようとしたが間に合わず、一端出した右手の処置に困ったのか、照れを隠すように自分の鼻の頭を撫でた。そして、その手を太腿の上に戻すと、今度は左手で、自分の顎の先をさすった。
 順子が、紅茶と焼き菓子を運んできた。
「いやあ、誤解に誤解が重なったようで、私の方もいけなかったところがあったなあと反省しているところです。秋江さんは頭の回転が速くて私の考えの及ばぬような賢さがあるし、真斗さんは趣味のサイトのファン仲間だったようで、たいへんびっくりしました。それにもまして、妹さん思いのすばらしいお兄さんじゃありませんか。仲の良いご兄妹で、感じ入った次第です」
 順子は、美怜と邦夫を隔てているテーブルの上に紅茶を配りながら、当惑げに邦夫に訊いた。
「………何か、ありました? 私にはさっぱり見当のつかないお話で」美怜の手前、順子の言葉遣いがよそ行きになった。
「妻に報告するまでもないと思っていましたので」邦夫は美怜に対しそう断ったうえで「一ヶ月まえに、真斗くんからメールをもらって、横浜駅近くで会ったんだよ。秋江さんも一緒にね」と今度は順子の方を向いて説明した。「最初は、同じ趣味の端切れ制作の話題だったのだけど、秋江さんのスカートが切られた電車に偶然居合わせた私を疑ったんだね、切ったのは私ではないかと訊かれたんだ。………もちろん、そんなことをするわけがないけど」
 順子はちょっとめまいでもしたかのように、一瞬目をつむった。気分の悪さを何とか耐えているといった風情だった。
 美怜が口を開いた。
「まあ、ほんとうにねえ。考えもなしにそんな失礼なことをきくなんて、まったく我が子ながらどうかしているとしか思えなくて、厳しく叱ったところなんですのよ。………奥様にも、謝らなくては。………本当にすみませんでした」
 美怜がゆっくり頭下げたのに対し、順子は目をつむりうなだれた姿勢のまま、テーブルに頭が触れんばかりに頭をさげた。無言のまま。
「許していただけるかしら」
 美怜の声が優しく順子に迫る。
 順子は、ひたすら身を堅くして耐えている。
 美怜と順子の間の緊張を切るように邦夫が口を挟んだ。
「東坂さん、その件はどうぞご放念下さい。私に非がないことを知っていただければそれで結構です。逆に、出会いはへんな具合だったのですが、才能あふれる素敵なご兄妹に会えて私は幸せだと思っています。端切れ制作で何か手助けになることがありましたら、できるだけお教えしたいと思っています。そのことをお二人にお伝えいただけますでしょうか」
「まあ!」美怜がひときわ大きな声をあげた。「そんなお優しいお言葉をいただいて………真斗も秋江も自分たちの考えのなさに恥じいってしまいますわね」美怜は、機嫌良さそうに大笑いした。
「ところで、奥様。いぜん痴漢撲滅運動のパンフレットをお渡ししましたが、ご覧いただけました?」
「はい」
 順子は小声だ。
「ご主人様もご覧いただけました?」
「ええ、拝見しましたよ」
「それは良かった。いえね、じつはこのような性にまつわる運動というのは羞恥心が邪魔をしてなかなか広がらないのです。私どもも娘が被害に遭わなかったら、二の足を踏んでいたかもしれません。………勘違い、思い違いをされては困るのですが、美由紀ちゃんも同じ被害に遭われたとお聞きしまして、心から同情申し上げています。それに、ショックで声が出ないということを秋江から聞いており、たいへん心配しております。私たちですら心配なのですからご両親のご心痛は察して余りあります。………そこで、ご賛同いただきたいのが、この運動です。賛同といっても寄付をお願いしているわけではなく、ポスターの掲示やビラ配りのような地道な活動をご一緒にやっていただけないかということです。このような活動ができるのは、被害の苦しみを知っている者しかできないのが実状です。私たちの運動仲間は多かれ少なかれ皆辛い思い出を持っています。美由紀ちゃんが受けたような苦しみを放置しておくわけには参りません」
 邦夫は美怜の話を注意深く聞いていたが、美怜の話が一区切りつくと、紅茶のカップに手を伸ばし、余さず飲み干した。
「私は勤めがあるから、そういう活動には参加できません」
 邦夫は、運動に興味が無いことを隠すそぶりも見せなかった。言うことはそれだけだというようにそっぽを向いている。
「奥様は?」
 順子は、美怜を見、邦夫の横顔を見、首を傾げている。
「………今すぐには決められない。美由紀の受験が目前なもので」
「それはそうですね。・・・私も、今すぐという意味で言ったつもりではございません。………ご主人様にももう一度考えていただきとうございます。痴漢撲滅運動は、男性に働きかける運動なものですから、運動員側に男性がいますとアピール力が増します。休みの日のほんの一、二時間のご参加をお願いするのみです」
「私らは政治家じゃないのでね」
 邦夫が嫌みっぽくそう言った。
「私どもの活動員は、そのほとんどが勤め人と主婦の方々です。苦しみを分かち会える仲間です。………まあ、今日はご案内ということで、またお邪魔したいと思います」
 美怜が木田家を辞しての戻り道、大倉山駅方向から帰ってくる美由紀の姿を認めた。美怜が手を振ると美由紀が頭を下げた。二人は出会った。美怜はダークグリーンのダウンコートの美由紀の顔を見上げた。身長百六十センチメートルの美怜に対し美由紀は十センチメートルほど背が高い。
「たったいま、お父さんとお母さんにお会いしてきたところ。………秋江に聞いたのだけど、大変な目に遭ったんですってね。声は大丈夫?」
 美由紀は淋しげに首を横にした。
「駄目なんです。今日も、練習は短めの方がいいと言われ帰ってきました」
 美怜は腕時計を確かめた。午後四時を過ぎたばかりだ。往来の人たちが二人を避けるように歩いている。
「ねえちょっと、お話しない?」
「はい。………むかしよく行った児童公園が近くですので、そこで良いですか?」
「いいわよ」
 二人は、並んで駅方面に歩き出した。

 美怜が自宅に戻ったのは六時を過ぎていた。
 玄関に迎え出たのは秋江だった。
「遅かったわね。………それで、どうだった」
「帰りがけに、お買い物もしてきたから遅くなったのよ。それに、美由紀ちゃんにもばったり会って、話をしてきたわ」
「………ふうん、それで?」
「まあ、せっかちね。………ほら、先にこれを台所に持って行って」美怜がスーパーの紙袋を秋江に渡した。「ママは着替えしてくるから」
 美怜はそう言って寝室に消えていった。
 秋江は台所でじりじりしていた。
 着替えを終わった美怜が来ると、さっそく飛びついてきた。
「ユッコのお父さんと話した?」
「ええ勿論。あなたと真斗に会ったことや、犯人じゃないかと追及したことを奥さんはまったくご存知じゃなかったみたい。動転なさっていたわ」
「ぎぇぇぇぇぇい、ママったら、それ言ったの」
「あら、いけなかったの? それで、痴漢撲滅運動を一緒にやりましょうってお誘いしたの」
「信じられない。それで反応は?」
「その気がなさそうね」
「そりゃあそうでしょ」
「でも、何度でもお誘いするわ。また伺いますって言ってきたの。それより、後で美由紀ちゃんと会ったって言ったでしょ。美由紀ちゃんは、運動を一緒にやってくれるって言ってくれたわ。明日から、朝と夕方の一時間ずつ、駅に立ってビラを配ってくれるんだって。だから私も一緒にやるって約束したの」
「ぎぇぇぇぇぇい、ママ、何て言うことを!ユッコは試験直前よ」
「そうよ。明日から四日間。試験の前々日までやってくれるって。………あなたも一緒にやる?」
「………ぎぇぇ」
「その、ぎぇぇは止めなさい」
「………はい。でも、私は、お断り申し上げまする。いまですら、パパやママが配っているチラシを見て近所のおばさんたちに『チカンに遭ったんですって』なんて言われるんだもの。駅でそんなものを配れますか。私はチカンにいやらしいことをされましたって公言しているようなものじゃない。ゼッタイ、ゼッタイ、ゼッタイ、イヤー」
「わかりました。………そんな大声を出さなくとも聞こえます」
「それより、ユッコがなんでそんなことをOKするの?」秋江が美怜をキッと見据えた。「ママ!ユッコを脅迫したわね。未来の後援会のゴッドマザーとして、お父さんの犯した罪をあなたが替わって罰を受けなさいとかなんとか言って」
「バカをいいなさい。ママがそんな下品なまねをすると思ってるの」
「思う。ちょっとだけ」
「夕食、無しね」
「それだけは、ご勘弁下さい」
 秋江が平伏する。食事抜きは、美怜の逆鱗に触れる寸前のしるしである。
「いまの発言、悔い改めております。ごめんなさい」
「………」 
 無言は美怜が本気で怒っている証拠であり、怒りが峠を越した証拠でもあった。
「でもね、ママ。ユッコのお父さんやお母さんはどう思っているのかなあ。ユッコがどう説明するか知らないけれど、ママを恨んでいるかもしれないよ。うちの娘をどうしてくれるんだって」
「まあ、そういう場合もあるわね。そうなったら、それまでのこと。やるしかない時もあるのよ。それが、いまだということね」
「………へえ、いまが勝負どころなの?」
「そう」

 翌朝は日曜日だったが、美怜は五時起きして家族の朝食の準備を終えると、六時前にビラを二百枚持って家を出た。六時十五分には、大倉山駅前に着いていた。美由紀が約束の六時半に来てくれるかどうか不安であった。東の空がようやく明るくなる。寒さが募る。今日の美怜は防寒対策のため、若い頃着ていた毛皮のコートと、厚手のマフラーを首から耳元まで隠れるように重ね巻きをしていた。少しでも体を温めるためにとレッグウォーマーで覆った脚で足踏みしたり、駅前を行ったりきたりして運動していた。その合間合間に、美由紀が来る道の方をちらちら見ていた。
 美由紀らしい人影を見つけたとき、美怜は小躍りするほど嬉しかった。手を振ると、美由紀も返してくれた。美由紀は昨日と同じダークグリーンのダウンコートにジーパン。それに耳まで隠せる毛糸の帽子を被っていた。
「よく、来てくれたわねえ」
 美怜は駅に着いた美由紀の背中をぽんぽんと叩いた。
「いいえ、私こそ申し訳ないと思っています。勝手なお願いを聞いていただいて」
「いえいえ、ご両親にはちゃんと断れた?」くりくりしたまなざしで美由紀の目を見つめる美怜は若々しくチャーミングで、アッキーもこんな風になるのかなと美由紀を驚かせた。「昨日の感じだと難しいかなと思っていたのに、よく許して下さったわね。私がそそのかしたって思われてるのじゃなくって。私はそれでもいいのよ」
「いいえ、そんなことは………母も父もびっくりしていましたけど。私が声を取り戻すために必要なことなんだということ、それにアッキーのママともう約束したことなのだって、押し切りました」
 美怜は、胸の前で両手を合わせて指先だけで小さく拍手した。
「えらい、えらい。………それじゃ、これから四日間が勝負よ。始めましょうか」
 美怜は、持ってきたビラの半分を美由紀に渡した。そして、駅の右側に美怜が、左側に美由紀が立って分担することにした。
 日曜日が初日になったのは偶然ではあったが好都合だった。朝の駅を利用する人数が平日に比べはるかに少ない。美由紀が「よろしくお願いします」とおずおずビラ配りしているので、美怜が「痴漢撲滅運動にご協力をお願いします。痴漢を発見したら、すぐに近くの人に伝えましょう。みんなで痴漢を許さない社会を作りましょう」と大声で、呼びかけるようにした。すると、美由紀も徐々に呼びかけることができるようになってきた。
 一時間後、手持ちのビラは半分ほどに減っていた。
「ご苦労様。だんだん声が出せるようになっていたわね。夕方はもっと人手があると思うので、ビラが不足しないよう持って来るから。………ビラを渡すのがうまいわね。みんな美由紀ちゃんの方から貰おうとしてるんじゃないかしらね。あはは」
 夕方六時からのビラ配りに、美怜は幟も持ってきた。
「チカンを許すな!」
 コバルトブルーに地に白い縁取りの真っ赤な文字。大漁旗のような色合いは決して誇れるセンスではないが、迫力がある。改札から出てくる人の目に否応なく飛び込んでくるアピール力だ。美由紀も美怜と一緒に大声で声掛けをする。
「どうでした。初日の感想は?」
 美怜が幟を畳みながら美由紀に聞いた。
「………もしかしたら、チカンした犯人に会うんじゃないかとびくびくしていたんですが。今日はいませんでした」
「見つけたらどうするつもりだったの?」
「………この人、チカンですって………言えるかな?………自信がないです」
「………じゃあ、私に言って。何とかするから」
 美怜は、そう言ったものの、あてがあるわけではなかった。
「本当ですか。ありがとうございます」
 美由紀が晴れ晴れとした表情で、家に帰っていくのを美怜は見送った。
 帰宅した美玲を秋江が待っていた。 
「メモの買い物を終えて先ほど帰って参りました。すべて冷蔵庫に納め、無事終了です。炊飯器のスイッチも言いつけどおり押しました。………報告は以上、隊長どの」
「なあに、その冷やかし。感じ悪いわね」
「うーん、ユッコはどうだった?」
「よくやってたわよ。自分の目標に向かって一直線って感じ。頼もしいわね」
「うーん、ママがユッコを褒めるのは嬉しいけど、反面シット心のようなものがわき起こるのよね、この乙女心は。………めらめらと」
「バカをおっしゃい。ブラのサイズが大きくなったんでしょ。子供っぽいことを言っても似合わないわよ」
「やられた」秋江が心臓のところを両手で押さえ、苦しむふりをする。そして、思い出したように言った。
「さっき、お兄ちゃんが帰ってきたんだけど、駅でユッコからビラを渡されたんですって」
「そうなの、気づかなかったわね。何か言ってた?」
「なんか可愛そうな感じだったみたい。………本人、呼んで来るね」
 秋江はキッチンを出て行った。
 美怜が包丁を使っているとき、真斗が秋江に背中を押される格好で入ってきた。真斗が嫌がるのを秋江が許さなかったらしい。
「なにが可愛そうだったの。私には、そうは見えなかったんだけど」
 真斗が秋江の手をふりほどいている。
「かわいそうというか、ドキッとさせられたというか、美由紀ちゃんは僕だっていうのを気づかなかったみたいだけれど、呼びかけられたような錯覚を起こしたんだよ。よく聞いてみたら『みなさん、チカンは許せません』と言っていたんだけど、イントネーションの違いなのか時々『みなさん』が『おとうさん』に聞こえ、『おとうさん、チカンは許せません』と言っているように聞こえたんだ。………ただ、それだけ」
「………そう、でも本当にそう言っていたのかもしれないわね。それが彼女の言いたいことだから」

 二日目の朝。美怜は、真斗が昨日美由紀ちゃんから呼びかけられたと言っていたことを報告した。しかし、美由紀は気づかなかったらしい。
 月曜日の朝なので、駅は多くの通勤通学の乗降客が通っていく。美怜は、邦夫の姿も見つけた。美由紀の受け持ちは反対側だったので気がついていないかもしれないと思いながら、美怜は横顔を見つめた。しかし、邦夫は目もくれずに改札に吸い込まれていった。
 一時間が過ぎた。幟を片づけている美怜に美由紀が報告した。
「さっき、アッキーと真斗さんに合いました。二人から『頑張ってね』と励まされました」
「秋江と真斗が一緒に登校?………珍しい」
 美怜は首をひねった。
 その日の夕方は、朝にもまして乗降客が多かった。美由紀のかける声がよく聞こえるようになった。
 七時になり、美怜は美由紀に撤収を告げた。
「だいぶ声が出てたんじゃない?」
「今日、学校に行ったら、いろいろ噂になっているようなんです。嫌な視線を教室でも感じますし。………電車通の友人でビラを受け取ってくれる人もいますが、知らんぷりの人もいますね。そんなこと、もともと覚悟していたので構わないのですが、自分の気持ちが縮込まないよう声を出しているんです」

 三日目は建国記念日で休日だった。日曜と同様に朝の乗降客は少ない。駅員の方とも顔見知りが出来て、美由紀がチカン被害に遭ったときお世話になった方からは、すっかり馴染みのような親しさで声を掛けてくれるようになった。美由紀にチカンした犯人を見かけたときはすぐに言ってほしいと駅員が言った。自動改札をすり抜けた違反も犯しているので、駅としても見過ごせないからと言ってくれた。美怜は、その申し出に救われた思いをした。美怜はまだそうなった場合の解決策を持ち合わせていなかったからだ。
 夕方の時刻帯。美怜が気づいたとき、外出から帰ってきた真斗が美由紀に話しかけていた。美由紀も昨日挨拶しているので、真斗を判別できるようになっていたようだ。美怜は、それに気づかないでいるふりをすることにした。でも、ビラ配りが終わった後、美由紀から真斗に会ったという報告が当たり前のようにあった。
「そう。じゃあ明日も会うかもね」
 美怜はそんな予言をした。

 四日目は水曜日。今日がビラ配りの最終日という日になって、急に順子が美由紀と一緒にやってきた。
「遅ればせながら私も参加させて下さい。美由紀が、何から何までお世話になって………今頃になっての参加は気が引けるのですが、私もそれなりの覚悟を決めたつもりです」
 順子の目が厳しい。
「ご主人が反対されていてもいいんですか?」
 そう訊ねた美怜に答えたのは、美由紀の方だった。
「お父さんは大丈夫。………お父さんは私が何をやっても動じません。そう言ったんです。そして、それはたぶん本当です。お母さんが私と同じことをやっても反対するはずがありません」
「………そうなの?」
 美怜は、美由紀と順子の顔を交互に見た。
「はい」と美由紀。
「主人は、反対しているわけではございません」と順子。
「………そうなんですか」
 美怜は先日会ったばかりの邦夫の顔を思い出していた。リビングで立ち上がって美怜を待っていたときの様子。真斗と秋江に会ったことを順子に話すときの様子。痴漢撲滅運動の話に横を向いて聞いていた様子。そして、今日の母子の言葉。どこをとっても邦夫に隙がないことを美怜は改めて確認した。
「ご主人は、これからご出社ですか?」
「ええ」と順子。
 美怜は、今日の邦夫を見たいと思った。
 六時半になりビラ配りが始まった。
 平日なので出社や登校の乗客が集まってくる。ビラ配りを朝夕四日間すると、通行人も分かっていてビラをもらってくれる割合が減ってくる。でも、新たに順子がメンバーに加わったことで声がけの勢いに弾みがついた感じだった。
 美由紀の声がよく響いて聞こえてくるのが、美怜を満足させた。四日前、児童公園で、美由紀からビラ配りをやりたいと申し出されたときは躊躇してしまった。家族から反対されることは目に見えている。でも、痴漢事件がきっかけになって男性に対する恐怖が押さえられなく、声を出せないでいること。そして、それを克服するためには自分に自信を持たなければならないこと。美由紀はそれを充分分かっていた。しかし、実は美怜の方に心の用意がなかった。美怜はただ美由紀を元気づけようと「話をしましょう」と誘っただけで、木田家に訪問して痴漢撲滅運動の勧誘をしたことを話したのはただの話題に過ぎなかった。だから、美由紀がそれに飛びついてきたのは、意想外の出来事だった。美由紀が自信をつける方法は他にないものかと美怜の方が悩んだくらいだった。しかし、美由紀の熱意が美怜の躊躇を氷解させたのだった。
 ベージュのコートを着た背の高い邦夫の姿は目立っていた。美怜は近寄って挨拶しようとしたが、邦夫の歩くスピードが早いため声を掛けそびれてしまった。しかし、邦夫は美怜の方に顔だけ向けて目だけで会釈を返してきた。無視でも同意でもないが、そこはかとない優しさの滲む会釈だった。
 夕方、最後のビラ配りにも順子は参加した。美怜の予言どおり真斗が同じ時間で帰ってきた。順子が真斗に挨拶している姿を認めた美怜は、真斗に注意した。
「秋江が、お兄ちゃんずるいって言ってたわよ。夕方の買い物は私ばかりって。………早く帰って秋江を手伝ってね」
 真斗は、照れ笑いをしながら去って行った。
 最後のビラを配った後、美怜が美由紀に言った。
「いよいよ明後日が試験だけど、自信はついた?」
 美由紀はにこっと笑った。四日前の美由紀とは違った目の輝きだ。この四日間のビラ配りの反響は、美怜が想像したよりも大きかった。街を行く人も、駅員も、美由紀の家族も、真斗も、ある意味では秋江も、美由紀の力となったのだ。勿論、美怜自身も。美由紀の少女っぽい笑顔の中に、自分の意志の力に対する自負心が閃いていた。
「ありがとうございました」美由紀は体の前で左右の掌を重ね、丁寧に美怜に頭をさげた。
「これからも、どうぞご指導をよろしくお願いいたします」と中学生にしては出来すぎる挨拶をした。

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