
「──坂。東坂!」
先生の声で、我に返る。
「窓の外に、何か面白いものでもあるか?」
「──外側から見てるだけなので、わからない状態です」
ぽかんと抜けたような短い静寂のあと、教室に戸惑うような笑いが広がった。
秋江は学校から帰って自分の部屋に直行した。部屋着に着替え、レポート用紙を開く。下校中もいろいろ考えていたことを整理し、これからのアクションを練るのだ。「さて」と声に出して、お気に入りのボールペンを握る。
☆ ユッコとはしばらくコンタクトを控えなければならない。その間、私はどう動くか。
☆ ユッコが無事に宝塚に合格した場合、彼女は家を出て寮に入ってしまう。その流れをいいことに、木田家はチカン事件をうやむやにするのではないか。そうはさせない手段は?
☆ だからといって、おじさんのことを表沙汰にするのは、ユッコの今の状況的にまずい。まるでユッコの将来にブロックをかけるような行動になる。
☆ こうしている間にも、おじさんは罪を繰り返しているのでは。
☆ ユッコのチカンの犯人は、捕まったのか? その後どうなったのか? それがきっかけで、おじさんの行動の謎も解明される方向に進んだりはしないのか?
「あ~。望み薄いな。あの家族だもん。おばさんもユッコもおじさんに気を使い過ぎてるんだもん。ユッコのお母さんがうちのママだったら、おじさんをもっと締め上げてるだろうな」
秋江は、立ち上がって、ベッドから枕を持ち上げると三発殴って放った。──ユッコのお母さんじゃなくて、うちのママだったら……。
「あれ?」
何か思いつきそうで、部屋をぐるぐる回った。えーと、えーと。
去年の暮、Yモールでユッコとおばさんに会ったって、ママが言ってた。ゆくゆくはユッコの後援会をつくるとか、ベラベラ話したらしいけど、痴漢撲滅運動のチラシを渡した時に……。そうだ。ユッコにあとから聞いたんだ。「アッキーのママが若い頃、チカンを撃退した話が凄かった。びっくりしちゃって何も言えなかった」って。自分の名前の由来まであげて、「犬はしつけるもの。男もしつけるもの」の話をしてくれた、と。そんなこと中学生に言われても。それともおばさんに向けて? なわけないか。恐るべし、成り行き発言。ママはおじさんのチカン疑惑を知らずに、撲滅運動のチラシを渡したり、男のしつけの話をしたのだから、マジやばいっていうか、超スリリング。
──犬と男は、しつけるもの。猫は? 女は? 猫……。
わかんない。わっかんないよ。もうっ!
今度は、反対周りにぐるぐるしながら考えた。
だ、か、らぁ。ママだったら……なんだよね。ママを巻き込んだら、そりゃあ進展早いし、当然パパの耳にも。うう、ユッコの受験が……。このままだとおじさんはのらりくらり逃げるばかりだし。振出しに戻る? それは、嫌。
「よし。おじさん、あなたに猶予をあげよう。今日から三日だ。それでもだめなら」
ぴたりと立ち止まると腕を組み、不適な笑みを浮かべてみた。が、これまでの人生で不適に笑ったことがないので、うまくできたかどうかわからない。
スマホを手に取ると、おじさんに宛ててメールを打った。
「秋江です。ズバリ質問です。おじさんの布とハサミと猫はどう繋がっているのでしょうか。とても知りたいのです。教える気があったら、日時場所を指定してください。私はユッコと違って、かなり暇です」
推敲すると悩みそうなので、えいっと送信してしまった。「ユッコと違って暇」の部分に「おじさんには、受験を控えている大切な娘がいますよね。このままでいいんですか」的なニュアンスを含めたのだが、動揺してくれるだろうか。わかんないかな? 秋江はメールを開封して、長い指をこめかみにあて、動揺するおじさんを想像しようとしたが、うまく像が結べなかった。
三日たっても、おじさんからのレスは来なかった。二日めも三日めもメールを送信したのに。「お返事待ってます」的なものより、まったく同じ文章のほうが恐怖感が増すかもと思って、同じものを送った。しかも二回目と三回目は深夜零時に送ってやった。
──なしのつぶて。何なの、この無視は! 私をなめるなよ。
四日目。帰宅後に着替えて、即リビングに向かった。ソファーでワイドショーを見ている美怜の前に立つ。
「ママ。ちょっといい?」
「よくない。見えない。あとで」
美怜は体を横に倒して、迷惑そうな声を出した。
画面には、「一か月で劇的変化! ヒップアップ体操」のテロップが出ていた。
秋江が仕方なく待っていると、
「いいわよ。なに?」
画面をオフにして立ち上がった。
「生チョコ大福が届いたの。いっしょに食べましょう」
「取り寄せしたやつ?」
「そう。お茶? ブラックコーヒー?」
「どっちでも合いそうだけど。コーヒーにする」
「じゃあ、ママも」
ふたりで用意して、ダイニングテーブルに移動し、向き合った。
「なによ、こわい顔して」
美怜が茶化したように言う。
「ママさあ、去年の暮にユッコたちと会ったじゃん?」
「──ああ、そうね。で?」
「その時、ママのチカン撃退話をしたんだって?」
「まあ、流れでね」
「ユッコ、ものすごく驚いてた。どうしてあんなに強く出られるんだろうって。なんであっけらかんと武勇伝みたいに喋れるんだろうって」
「秋江、やっぱりまだスカート切られたことが気になってる?」
──切られただけじゃないよ。と秋江は心で呟く。
「私、ママがその話をしている時そばにいなかったからわからないけど、なんていうか、自分の美人自慢みたいな感じでチカン撃退話した?」
「う~ん。まあね」
「ママって、そういう人だもんね」
秋江は、生チョコ大福を口に入れた。ココアパウダーのほろ苦さのあと、白あんと柔らかな餅が甘く混ざり合ってとろけるように広がった。
「ママ、これ、やばい!」
「美味しいと言いなさい」
「──美味しゅうございまする」
美怜も口に運ぶ。
「苦いものの中には、甘いものが隠れている。逆もまた真なりってね」
「はあ?」
「ママはね、チカンに最初に遭った時は、本当に怖かったの。それが何度か続いて、どうしたら逃げおおせるのか、恐怖でしかなかった。美由紀ちゃんに話した撃退話は、本当よ。ある時、思い切ったの。このままでたまるかってね。平気な人なんて、いないわよ」
「じゃあ、なんで」
「美由紀ちゃんとお母さんに向かって、チカンされるのは本当に辛いですねヨヨヨなんて言える私じゃないわよ。結局、ああいう言い方になっちゃったのね。チカンがへっちゃらなんて思えるはずないじゃない。最近は遭いもしないけれど。秋江はスカートを切られて怖い思いをしたけれど、触られなくて良かった。ママにチカンに平気になる方法を教えて欲しかったなら──」
「違う」
「慰めることなら出来るけれど」
「──あのね」
「強くなりなさい。女の人は我慢してそのまま済ませてしまう場合が多いの。この先、セクハラとかに遭っても、負けちゃだめ。女性として理不尽な目に遭ったら、声をあげなさい。舐められちゃだめ。ただ……身の危険を察したら、すぐに逃げなさい」
美怜は、コーヒーをごくりと飲むと、
「秋江とこんな話をする歳になったのね」
いい女を意識した風に微笑んだ。こういうところがママの可愛いところだと思う自分こそ大人になったもんだと秋江は思った。同時に、自分はママに何を言おうとしてたのか見失いそうになった。
「ママ。今から話すこと、冷静に聴ける?」
美怜は、長い睫毛が絡まりそうに目を細めてから待ち受けるように大きく開いた。
「それが、本題?」
「私の話を聴いて、いきなり行動に走ったりしないと約束して」
「何なのよもう」
「約束して」
「──わかったわ」
秋江は、声を発しようとしてから、コーヒーカップを手にし、口をつけようとしてやっぱりソーサーに戻した。
「あのね。私のスカートを切った犯人は、ユッコのお父さんかも知れないの」
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