第19話  父が怖い      芦野信司

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日吉の音楽スクールの一月二回目の授業は、翌週の土曜日午後一時からだった。
 順子は、大丈夫?一人でいける?と心配したが、美由紀は「大丈夫」と頷いた。
 ダウンのコートにジーパンをはきトートバッグを肩に下げ、大倉山駅の改札を通った。左手の事務室に目を走らせると、この間の夜の事務室の光景が脳裏に浮かんだが、昼の明るさの中で清潔そうな快適な室内がちらっと垣間見えただけだった。
 順子に見得を切った美由紀ではあったが、本当は平気でいられるかどうかの自信はなかった。事前に何度も、電車に乗って日吉駅に着いてスクールまでの道を歩く自分の姿を想像していた。防犯ブザーが役に立つことは分かったが、肝心のその時は使えなかったので、電車に乗っているときは、手の中に握っていようとか、別の道具、たとえばスタンガンを持とうかとかいろいろ考えた。あの時の悔しさを思うと、血が体中を駆けめぐる。いろいろ考えた末に美由紀が出した結論は、ボールペンを握っていようということだった。要は素早く反撃することだと考えた。ボールペン一本でも反撃はできる。
 ホームで電車を待つ美由紀の右手には、コートの袖に隠れてはいたがしっかりボールペンが握られていた。
 電車が着た。ドアが開いた。
 空いている席があったら座ろうと思う。痴漢にあう確率を減らすためだ。降りる人がいて席が一つ空いたなと思ったら、傍に立っていた白髪の老婆が座ってしまった。あとは無かったので、美由紀は、ドアのところに立った。体を車内の方に向けた。もうぼんやり外を見ていたりはしない。ボールペンを握りしめながら、近場にいる男たちを一人一人観察した。
 一番近くにいるのは、一メートルぐらい離れて吊革につかまってスマホをいじっている若い男。大学生かな。ダウンコートの背にザックを負っている。こいつに反撃するとしたら、太股だな。
 反対側のドアに寄りかかっている中年。暖房が暑いのか前ボタンをはずしたコートからワイシャツのお腹が出ている。あいつへの反撃は、あのワイシャツ。横一線を引いてやろう。
 反対側のドアの横の優先席で文庫本を読んでいる老人。体力的にも劣っていそうなので、警戒の対象外だ。
 あの男。……… また別の男。男。男。周りのすべての男を値踏みして、美由紀は、こんな目で男たちを見たことが無かったと思い至った。

「だめだよ。……… 全然、良くない」
 音楽スクールの先生は胸に腕を組んだまま、椅子の背もたれに大きくのけぞった。美由紀は、受験の課題曲の歌唱指導を受けていた。これまでに何度と無く繰り返し練習してきた曲であり、指導を受けたこまかなことを全部クリアーしたねと年末には褒められた曲であった。
「まるで違う声だ。……… 美由紀ちゃんらしさがない。どうしたの?」
 先生が、のけぞった姿勢から急に前のめりになったので、美由紀は「ひっ」と声を漏らしてしまった。
「すみません」
 美由紀は、口を押さえて謝った。
「何かあったのかい?」
 美由紀はおずおずと「何もないです」と答えた。
「……… まあ、言わなくてもいいけどさ。……… でも困ったねえ。試験まであと一ヶ月。……… まあねえ、自分で克服するしかないけど。これまで頑張ってきたのを知っているだけにね」
 先生は、残念だという言葉を飲み込んでしまったが、美由紀には痛いほど滲みわたった。
「申し訳ございません」
 美由紀の声が泣き声になりそうだった。
「今日はレッスンしない方がいいかもしれない。……… よく寝て、リラックスして、よく考えて、自分らしさを取り戻すことが何より肝心だからね」

 家に戻ると、邦夫しかいなかった。リビングでショパンのCDを聴いていた。
「やけに早いな」
 リビングのソファーで目を瞑っていた邦夫が、コートを脱いでいる美由紀の方を振り向いた。
「早退けしてきた」
「 ……… 」
 順子なら、どうしたの?と聴くはずなのに、邦夫は何も言わない。何か言おうとしたらしい気配はあった。でも、そのまま口をつぐんでしまった。
「お母さんは?」
「ちょっと遠くに買い物に行くって言って出て行ったよ」
「そう」
 美由紀は、コートを腕に抱え階段を上っていった。リビングは吹き抜けになっているので、階段の手すり越しに邦夫の後頭部が見えた。踊り場からまた階段を上る。二階の廊下の手すりの下もリビングだ。長い脚を投げ出した邦夫の頭頂部が見える。
 美由紀は自室に入りドアを閉めた。そして、音を立てないよう注意しながら内側からロックした。母が居ない家の中で、父と二人で居るのだと考えると、心が落ち着かない。父が怖いのだ。
 美由紀はベッドに倒れ込んだ。
 音楽スクールの先生の指摘は、あの痴漢事件のショックを真っ直ぐに言い当てていた。自分では一生懸命に歌っていたつもりだが、何度も歌い直しをさせられた。「初めて美由紀ちゃんの歌を聴いた人には分からないかもしれないが、私には分かる」と言われた。かと言って先生に事件のことを話す気にはなれなかった。先生に話せば、先生は納得もし、慰めてもくれるだろうが、そんなことで慰められている自分の姿を想像するだけでもぞっとした。
 痴漢事件のあった夜のファミレスで、美由紀が「もし、お父さんがアッキーにチカンしたというのが本当だったら、どんな形でもいいから謝ってほしい」と頼んだとき、邦夫は白けた顔をしてサンドイッチを頬張っていた。何も答えてはくれなかった。家に帰ってからも、こんどそんな奴にであったら蹴飛ばしちゃえなどと言う。お父さんは被害にあった私の気持ちを少しも理解していないのだ。
 それに、あの男。捕まったら、私に謝るのだろうか。きっと謝らない。二度と会いたくはないが、会ったとしても私を見下すような傲岸不遜な笑いを浮かべるのだろう。あー
 天井の天乃くれないのポスターが白い歯を見せて笑っている。
 美由紀は、寝たままの姿勢で傍らに置いてあったクッション枕を天井めがけて投げあげた。すると枕はなお勢いをつけて美由紀の顔に落ちてきた。美由紀はむせながら、その枕を横だきにして、自分の頭を打ち付けた。また打ち付けた。
「ちくしょう」と低くつぶやく。「ぺっぺだ」
「男は皆けだものよ」
 モールの喫茶店で平然と話をしていた美怜の声が美由紀の脳裏に響いた。
 あの男がの人間らしさは「静かにしろ」の言葉だけ。あとは容赦のない暴力。それこそ獣のような力だった。まるで通り魔のようなもの。相手は誰でもよかったはずだ。力で相手をねじ伏せて、性的興奮に酔いたいだけだ。
「きれいになったわー」
 またも美怜の声が浮かんできた。
 自分のどこがきれいなのかが分からない。でも、あの男は、私を女としか見ていなかった。それが不思議な感じがする。私は私のはずだったのに。私は女なのか。
 美由紀は、ベッドに倒れたまま、頭を抱え込んだ。
 先生からはゆっくり寝るようにと言われたが、寝られそうもなかった。連想が次々と浮かんで来るのだが、何かを考えているというのでもなかった。出口のない思考の渦が頭を占領しているのだ。先生は焦って本音を言ってしまったのだろう。だが、試験まであと一ヶ月という今なぜ崩れるのだという焦りを先生は言うべきではなかった。それは美由紀の問題だと思う。先生から言われてしまうと、いよいよ焦るではないか。美由紀は、自分の声の変質が、自分ではどうしようもないところで起きていて、しかも自分で克服するしかない問題であることはよく分かっていた。しかし、どうやって克服するのかが分からない。
 アッキーも痴漢にあった時は一時落ち込んでいたと言っていたが、解決したのだろうかと考えて、いや、解決などしていないのは自分が一番知っているじゃないかと、美由紀は苦笑した。何しろ原因のおおもとが父なのだから。でも、アッキーは犯人探しの中で見る見る変化して行った。すごく積極的になった。
 美由紀は、今の自分は男性に対する過剰な恐怖心を持っているのだろうと思っている。ボールペンで防御する自分をイメージすると、あの時の怒りが募ってきて、ちょっとしたことでも相手に手荒い傷を与えかねない。狂ったような自分の姿が浮かんでしまう。今にも襲いかかりそうな自分。心で牙を剥いている自分。そんな自分が自分の声を変えてしまったのだろう。アッキーのように自分も変わって行かなければならない。声を取り戻すためにも。
 美由紀はベッドから起きあがって、ドアのロックを静かにはずした。少し、ドアを開けてみる。邦夫の聴いている曲が、ショパンからラフマニノフに変わっていた。ドアを閉める。でも、ロックはしない。自分の恐怖心を安んじるための無用なことはしない。
「まずはここから」美由紀は自分の心にけりを付けるために、自分自身につぶやき、勉強机の椅子に座った。
 恐怖心に打ち勝つためにまずやるべきこと。具体的にやろう ……… アッキーならそう言うんだろうなと、美由紀は思った。 ……… それは、邦夫の痴漢問題にけじめをつけること。それ以外にない。一番身近で具体的な問題だからだ。
 もともと美由紀にとって邦夫が怖い存在であるはずがなかった。邦夫は、近い存在なのに、いつも一歩も二歩も離れたところに立っていたような気がする。事件の夜の風呂の後、順子からヘアードライヤーを掛けてもらい指で頭を触られていたとき、遠い昔に戻ったような安心感でうとうとしてしまった。でも邦夫からは ……… 邦夫から触られた記憶が一つもないのだ。腕で抱かれるのがせいぜいで、それもあまりやりたがらない。幼い頃の美由紀はそれが不満だった。他の友だちのお父さんのように、ほおずりをしたり抱きとめて欲しかったのに、邦夫はすうっと後ろを向いた。それが悲しくて地団駄を踏んで泣いた記憶もある。だから、ピアノの椅子に並んですわってバイエルを教えてもらったときはうれしくて、邦夫の指にわざと当たるように弾いたりした。邦夫はいやがった。しかたがないので、まじめに弾くようになったのだが、邦夫の仕事が忙しくなったとかでほどなくして終わってしまった。今でも邦夫は美由紀から触られるのをいやがる。……… やはり小さな時、順子に「なぜお父さんは、他のお父さんみたいに抱っこしてくれないの」と尋ねたことがある。
「あんまり大事すぎて怖いんだって。へんなお父さんよねえ」それが順子の答えだった。
 そんな邦夫がアッキーにチカンするなんて ……… アッキーから写真を見せられたときの驚きが美由紀によみがえってきた。
「……… クララのせい?……… そうなのね」
 ドライヤーをかけてもらった後で美由紀が眠ってしまったと思った順子がつぶやいた言葉だ。
 美由紀は、自分より先に生まれ、邦夫の膝の上が自分の席だというように主張するクララに嫉妬していたと思う。邦夫の指に撫でられて、目を細めていた。自分は撫でられないのにクララばかり撫でられてずるいと思っていた。でも、順子は別に捉えていたのかと気づいた。もしかしたら、クララは邦夫の指の愛人もしくは痴漢の対象だったのではなかろうかと。
 邦夫は自分のことを語らない、子供の頃のことも話さない。N県の出身であること。中学生の時に母親が死んだこと。母親がピアノの先生で邦夫に手ほどきをしてくれたこと。後妻を迎えた父と不仲になり、行き来を閉ざしたことしか分からない。趣味のことも、ピアノと音楽が好きなことは分かっていたが、端切れの工作を隠れてやっていたのは、アッキーから聞いて初めて知ったのだった。
 美由紀は、もしかしたら邦夫は現実の女性が怖いのではないかと思いついた。クララは雌猫だったが女性ではなかったではないか。端切れたちも思い出の女性たちだったのではないか。邦夫が痴漢犯だったとして、痴漢の対象は現実の女性かもしれないが、あっという間にすれ違ってしまう対象だったのではないか。ただ、アッキーだけは違っていた。アッキーだけはもう一度現れてしまったのだ。

 美由紀は携帯を持ち、アッキーにLINEを送った。
「チカンされた」 
 アッキーに言うべきかどうかはずっと迷っていた。アッキーに言えば、勝茂や美怜にも伝わると思ったからだ。そうなれば、またどんなことになるかも分からないと怖れていた。でも、何も隠すことはない。今を打開しなければと思ったのだった。
 アッキーからすぐに返信があり、電話に切り替わった。アッキーに話していると、事件の時の悔しさが思い出され感情を制御できない。でも「もし、お父さんがアッキーにチカンしたというのが本当だったら、どんな形であってもいいので謝ってほしい」と邦夫に言ったことだけは伝えなかった。邦夫が無視していることまで伝え、アッキーを傷つけたくなかった。けれども、もし邦夫が痴漢するとしたらクララのせいかもしれないとは言った。アッキーは理解不能だといらついていた。美由紀は、自分が言葉足らずなことをしゃべってしまったことを後悔した。電話で説明するには余りに複雑なことなので、ため息となってしまった。
 美由紀はふと思いついたことがあった。それが口から出てしまった。
「お父さんて、ピアノ弾く前に指がふるえるのよ ……… あっゴメン、独り言。落ち着いたら、連絡するね」
 自分の思考が混乱している中でアッキーに話してもアッキーを混乱させるだけだと思い、電話を切った。
 
 アッキーに電話している最中に思いついたことは、ピアノを弾くとき邦夫の指が震える原因を一度も本人に尋ねたことがないということだった。何となく邦夫の心の傷に触れるようで尋ねにくかったのだった。
 美由紀はドアをあけて、リビングへの階段を下りて行った。リビングには灯が入っていた。CDの曲はリストに変わっていた。美由紀は、邦夫の正面の小さなソファーに腰を下ろした。邦夫は目を瞑ったままだ。でも、美由紀が目の前に座っていることに気がついているはずだと美由紀は思った。
 美由紀は小さなため息をついてから、邦夫に呼びかけた。
 邦夫は眠たそうに右目を開け次いで左目を開けた。
「お父さん、私、お父さんが好きだし、感謝もしている。でも、お父さんのこと知らないことだらけなの。お父さん、あまり喋らないし、言いたくないこともあるんだろうと思うけど、少しずつでいいので、教えて欲しいの。今日知りたいのは、……… ピアノを弾くとき指が震えるのはなぜ?」
 邦夫は、指を組んだ両手を後頭部に持って行き、伸びをするように背を伸ばした。唸っている。
「なぜって言われてもねえ。指が勝手に震えるんだから」
「今日、音楽スクールから早帰りしたでしょ。お父さんは理由を尋ねなかったけれど、先生から声が変わったと指摘されたの。あの事件のせいなのは分かっているけど、どう克服したらいいのか分からない。……… お父さんの指も何かの原因で震えるんでしょ。……… それを克服しようと思わなかったの」
「思わなかった、かな。どうせたいしたことはないしね」
「でも、何か原因に心当たりがあるんじゃないの」
「……… 美由紀の参考になるとは思えないが、亡くなった母のピアノ教育、というか躾が厳しかったことは理由の一つかもしれない」
「怖かったの」
「それはもう、失敗すると小さな竹の鞭が指にピシッとくる」 
「恐怖?」
「まあね」
「それで指が震えるの」
 邦夫は顔をうつむけ、眉間の鼻梁を右の親指と人差し指で挟んで考え込んでいる。
「いやあ、それだけじゃないかもね」
「……… 私は、男の人が無性に怖いの。ほんとは、今も ……… お父さんがちょっと怖い。………ごめんなさい」
 美由紀がちょこんと頭を下げた。「でも、お父さんを理解して、お父さんを怖がらないようになることが私には必要だと思うの。 ……… だから、失礼なことを言ったり、したりするかもしれない。 ……… たぶん」
 邦夫はくすっと笑った。
「アッキーの痴漢ことかい?」
 美由紀が頷いた。
「お父さんが美由紀にやりこめられることはないと思うな。ただ、お父さんにも事情があるんで、言えないことは言えないよ」
 邦夫が微笑んでいる。
「うん ……… それで、さっきの指が震える件で、それだけじゃないって言ったけど、他の理由は何?」
「それは、言えない」
 玄関の方からドアの音と一緒に順子の帰宅の声が聞こえてきた。



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