第18話 秋江、キレる かがわ とわ

meiro.jpg 骨太で艶のない、けれどしなやかにうねる男の手が、木目をなぞる。慈しむようにゆっくりと。確かめるように丹念に。手の平で。指先で。木目と絡む指のアップ画面に、手の持ち主の声が重なる。
「触りながら、厚くするところと薄くするところを見極めます。音の高低、響きはこれで決まる。大事な作業です」
 秋江は、たまたまつけたテレビの「琴職人の仕事」という映像に釘付けになっている。自室のベッドに腰掛け、腕を後ろについてぼんやり見ていたはずが、気づくと前のめりで画面を凝視していた。
「木の声を聴く、といいますか。最高の音色が出せるように削ってゆきます。丹念に撫でて探ります」
いつの間にか、おじさんの指がそれに重なる。おじさんの指は、もっと細くて長いけれど……。カラオケ店で見た、猫を創る指。巾着から出した端切れの山を崩す時の。より分けて並べる時の。丸いロータリーカッターを扱う時の。尖ったピンセットでつまむ時の。ボンドをちょんとつける時の。中指の腹でそっと押して整える時の。鋏と手が一体化する時の。鋏クロスに専用油をそっと垂らす時の。時の。時の──。
 ──「お父さんて、ピアノを弾く前に指が震えるのよ」
 ふいにユッコの声が脳内をよぎる。自慢するような庇うような声色だった。ユッコから「チカンされた」と衝撃のLINEが着信したのは、一月半ば過ぎ。話が話なので、LINEのやりとりを途中で電話に切り替えた。ユッコは、話しながら洟をすすったり、興奮して早口になったりで、被害に遭ってから母親に迎えに来てもらうまで、更にそのあとの家族の様子までを延々と語り続けた。ほんとにユッコは、何でも話す。訊かないことまでベラベラ話すところがすごい。秋江にコメントを求めるというより、とにかく聴いて欲しいという感じで、こちらの言葉を差し込ませない状態なので、「大変だったね」「大丈夫?」ばかりの相槌をループするしかなかった。ユッコが受けた行為は、秋江の被害よりずっと卑劣で手荒いものだった。一時間も経ったろうか。ようやくユッコも落ち着いてきたので、「おじさんは? なんて?」と気になることを訊いてみた。娘がそういう目に遭ったことについて、自分がしている行為とどう向き合うのだろう。握ったスマホの向こうで、ぶんっと洟をかむ音が聞こえ、
「なんか、心配するというより……今度はチカンを蹴っ飛ばしちゃえ的な……お母さんはすごく心配してくれたのに」
 不安とも怒りともつかないような、掠れた声を出した。
「──え。そんなこと……」
 秋江は返答に困ってしまい、少し黙った。すると、ユッコが妙なことを言いだしたのだ。
「私ね。猫が原因かも、と思うの」
「猫??」
「チカンに遭った日の夜、お風呂上りにお母さんがドライヤーかけてくれて……気持ちよくなって……すごく疲れてたし、そのままうとうとしちゃったのね。で、割とすぐ、ぼんやり目覚めたんだけど、寝たふりしてたの。お母さんの隣にいたかったし。そしたら……お母さんが、呟いたの。──クララのせい? そうなのね── って」
「クララって、あの」
「そう。一年前に死んだチンチラ」
「──飼ってたよね。で?」
「お父さんは、クララを溺愛してた」
「あのさ、悪いけど、猫が死んだショックでチカンするか? しないと思うけど。そんな無茶苦茶な理由……」
「でも、お父さんのこと一番よくわかっているのは、お母さんだし」
 秋江は、イラッとした。
「ふうん。じゃあ、ユッコはお父さんのことやっぱりわかってないんだね。おばさん、そんなにおじさんの事、よくわかってるんだ。すごいね~。でも、おばさんのひとり言はさ、別の意味だったと思うよ。ユッコの勘違いだよ」
 ユッコが、息をゆっくり吐く音が聞こえた。
「お父さんて、ピアノを弾く前に指が震えるのよ」
 話の内容からかけ離れた言葉を唐突に吐くと、電話は切れたのだった。
 秋江の心配や同情なんてちっとも受け止めずに、一方的に気の向くままに話し続け、自分だけ吐き出して、わけのわからないことを言いだして。
 ──テレビ番組は、エンドロールが流れてCMに変わった。琴職人の手のせいで、秋江は今、ものすごく複雑な心持ちである。最初はうっとり感じ入って見ていたのに、ユッコの電話を思い出したあたりから、イライラ感が増してきた。
 そもそも、ユッコのお父さんの被害に遭ったのは、私だってことを忘れてない?
 ユッコの被害は、話を聴いているだけで、本当に気の毒で可哀想で気持ち悪くて、心に傷を負ったのはわかるけれど。
──私、ユッコにちゃんと謝ってもらったことって、あったっけ?
 一番最初に、ユッコのお父さんがチカンかもと告げた時だけ、「ごめんね、まだ信じられない」と言われた一回きりで、切った犯人にほぼ間違いないとわかってからも、ちゃんと謝ってもらっていない。お父さんがチカンなんて信じられないという方に気持ちが行っちゃって、私の気持ちより、謝るより、そっちの方が……。
 ──ずっと、そうだよね。それに……ユッコのお母さんだって。ユッコが「うちに来ない?」と誘った時だって、私が行ったら、おばさんが困るだろうなと思ったから……。考えてみれば、おばさんが私に謝りに来たって、いいじゃない! ユッコの話だと、おばさんもおじさんが犯人だとわかっているらしいのに! ひどい!! おばさんて、よく考えると、とっても嫌な人。ものすごくずるい人。私が我慢しているのを、言わないのをいいことに、逃げ切ろうと思ってる。ああ、ムカツク! ユッコの話だと、警察でお母さんが被害届を書いたらしい。娘を慌てて迎えに行き、被害届を書いて、優しくいたわる母親は、娘の親友が同じようなショックを受けたことを考えなかったのだろうか。防犯カメラで、犯人は特定されたらしい、ユッコによる特徴は、秋江の犯人二人説のひとり「触ったかもおじさん」とは違うものだった。同じ人だったら話は早いが、そううまくいくものではない。世にチカンは大勢いるのかと思うと怖くなる。ユッコにチカンした犯人は常習らしい。そのうち捕まるのだろう。それで、解決?
 ──ねえ、私の気持ちは? 私がパパとママに言ったらどうなると思うの? 私を甘く見るんじゃないわよ。ユッコもおばさんも、冷たい──呆然と膝を抱えた。
 言えるわけがない。これ以上表沙汰にして嫌な思いをしたくない。ユッコの被害は、私が黙っていれば広がらないけれど。私は──。
 そもそも秋江のムカツキは、昨日から始まっていた。学校の帰り、家の近所まで来ると、井戸端会議のおばさんたちの輪が出来ていた。
「こんにちは」
挨拶し、通り過ぎようとすると口々に、
「まあ、秋江ちゃん。今あなたのことを話していたのよ」
「お父さんとお母さんから、痴漢撲滅運動のチラシを」
「通学する時に、遭ったんですってねぇ」
「可哀想に」
 輪が崩れて、秋江をそこから呑み込むように歪に開いた。秋江は後ずさって、
「父と母が話したんですか」
 思わず硬くなった声で問うと、
「いいえ。このチラシをあちこち配って歩いてらっしゃるでしょう? うちの親戚の娘さんが秋江ちゃんと同じ学校で、そういえばそんな話、学校で聞いた。朝礼で注意しましょうって言われたって。で、どんなことをされたの? 怖いわねえ」
「あなた、やめなさいよ」
「あら、私は秋江ちゃんを心配して」
 被害に遭ったのは、去年の十月だから、とっくにみんな忘れてくれていたのに。スカートが切り取られていることに気づいたのは、保健室の養護教諭だったことを幸いに、学校職員は、秋江が被害者だとわからないようにしてくれた上で、後日生徒たちに、報告と注意喚起があった。それでも、被害者は秋江らしいという噂は、学校が保護者と生徒に送信した「変質者情報」の電車駅や、事件後に秋江がママの運転でしばらく車通学したこともあり、いくら制服の替えスカートがあったからといって、バレバレだった。それでも、周りの友だちは優しかったし、七十五日どころかあっという間に皆の頭から消え去ってくれていた。──なのに。
「失礼します!」
 秋江は、ぴょこんとお辞儀をすると、足早にそこを去り、途中から走り出して玄関に駆け込み、リビングのエアロバイクに跨っていた美怜に詰め寄ると、
「もうっ! ママたちのおかげで大迷惑! 娘がどういう状況になるか考えてみなかったの? デリカシーゼロ! 想像力、ゼロ! 大迷惑!!」
 と、鞄を床に叩きつけたのだった。
 頭に来ることが次々思い出されて、秋江は「くっそー」と、枕を殴った。「バカヤロバカヤロ」ボスボス連打し、両手で掴み、ベットに押しつけねじ伏せた。頭に来ると、いつもこの枕を殺す気でぶん殴る。だから、羽毛枕は好まない。破れたら大変なことになるし、パンチの手ごたえが無い。ママからはいつも「秋江は枕がすぐボロボロになるのね。いったいどんな寝かたをしているの」と言われるが、知ったこっちゃない。ほんとはサンドバッグが欲しい。あれはアマゾンとかで売っているのか。お小遣いで買える値段なのか。吊るしたら、天井抜けるかな。その前に持ち上げられない? やっぱりボクシングジムに通えばいいのだ。パパに月謝を出してもらおう。対戦相手をボコボコに殴って、マットに沈めてやる姿を秋江は妄想した。秋江にやられた相手は、うつ伏せになっていて顔が見えない。なぜか女でなく、男だということはわかる。
誰も私の気持ちをわかってくれない。四面楚歌ってやつだ。誰も──。
──君とは哲学が合いそうだ。
おじさんの低い声が、蘇る。ああっ、もうっ、わけわかんない。一番の問題者は、おじさん、あなただ。
「ぎぇぇぇぇぇぇい!!」
 吼えて拳を振り上げた時、いきなりドアが開いた。
「うるさいっ!」
 真斗が腕を組んで睨んでいる。
「う、そ。なに!? お兄ちゃん、ありえない。いきなりレディーの部屋を」
「どこがレディーだ。うるさくて勉強できない。我慢の限界だ。またかよ、いい加減にしろ」
「また?」
「たまに部屋で暴れたり叫んだり」
「──聞こえてたの?」
「普通、聞こえる。聞こえないと思ってたのか」
「だって何も……」
「聞こえないはずがないだろう。馬鹿じゃねえの。たぶん下にも響いてる」
「ママ、何も言わないよ」
「あの人は、前にもお前が部屋で騒いでいた時、そういう年頃なのよと笑っていたから。オヤジにも同じこと言ってると思う」
 ──わかっていたのか。不覚だ。サイテーな気分だ。うう。恐るべし。ママ。
「だってだってだって」
「静かにしてろよ。じゃあな」
「待って! シエーレ01関連のことで。というかチカンの、ユッコがチカンに」
 真斗は、組んでいた腕をほどいた。
「入るぞ。いいか、小さな声で話せ」

 秋江は、ユッコがチカンに遭ったことを暴露した。猫のクララが原因かもと言い出したことも。おばさんは、娘が被害に遭ってものすごく心配しているのに、娘の親友が遭った被害については、それが自分の夫のせいであるにもかかわらず、知らんふりしていること。ユッコもおばさんも、秋江に申し訳ないという気持ちより、おじさんがチカンだということばかりを問題にしてること。ふたりとも秋江が黙ってるのを幸いに、このまま済まそうとしていること。
「おにいちゃん。私、そういうことに気づいちゃったの。私の気持ちなんて、どうでもいいのよ。ひどくない?」
 真斗は、閉じたドアに寄りかかったまま、ちょっと笑った。
「気づくの、おせえよ」
「え。だって」
「そんなの当然だろ。美由紀ちゃんはもうじき宝塚の受験もあるし、おじさんの社会的な立場や近所の目もある。わざわざ木田家のあるじは犯罪者ですなんて公表するはずないじゃん。秋江さえ黙っててくれたら、ありがたいに決まってる。おばさんだって、秋江に謝りになんて来たら、認めたことになる」
「お兄ちゃん。何で私と一緒にシェーレ01に──おじさんに会いに行ってくれたの?」
「謎の解明をしたかったし、どんな人間か興味があったから。鋏のことも兼ねて」
「切った犯人だと思ってるよね」
「思ってる。それは全員共通だろ。ただ本人が煙に巻く説明するし、証拠がない」
「ユッコは、猫が原因だって言ってるけど、どう思う?」
「おばさんがそう言うなら、そうなんじゃないの」
「そんな!」
 秋江がつい大声を出したので、真斗はあわててドアから離れて、秋江に近寄った。
「静かに」
「お兄ちゃんは、おじさんが小さい時から、女の人の体温が残った布を切り取って集めて来た話、ほんとだと思わないの。おじさん、言ったじゃない。一枚一枚女たちの物語を秘めた布で、作品を創ってるって。あっちのほうが、私、真実だと思う」
「理由は?」
 秋江は、おじさんと何回か会った時にやりとりした話をしたかった。その話をすれば、猫が原因じゃなくて、女の人の体を覆っている布を集めずにいられない方が理由に違いないとわかってくれると思った。でも、おじさんとの約束は破れない。
「これは、あっちの家族の問題なんだよ。おばさんがそう思うなら、それが答えなんだよ。俺たちは部外者だ。向こうにすれば、わかってもいないくせに、だろ」
「部外者? 私はおじさんに被害にあった本人なのよ!」
「──ごめん。でも俺はさっきも言ったように、おじさんを犯人として捕まえることより、どんな人間かに興味があったんだよ。犯人として追い詰めるなら別のやり方もある。あの人さ、俺たちがわざわざ貸会議室をとって話を聴こうとした時点で、もう気づいてたじゃん? なのに、スマホを預けろとか言わなかった。写真撮ったり、録音するかも知れないのに。──完全に向こうのが上だよ。自信があるというか。いっちゃってるというか。あの家族って変だぜ。俺があの人の奥さんだったら、疑ってて不安なら、とっくにICレコーダーを仕込んだり、尾行したりしてるよ。レコーダー仕込むなら、まずおばさんだろ。俺はね、あの日、おばさんのほうがレコーダーを仕込んでいるんじゃないかと、密かに期待してたんだ。俺たちの会話を聴いたら面白いことになるってね。想像するだけで、すごくね? 残念ながらしてなかったみたいだけど。見張っていれば、出かける時わかるし、あらかじめなんとか仕込めるはずなのに。もう、わかったよ。何でおばさんは、何もしないと思う? もうわかっているからだよ。確信しているからだよ。何でも話しちゃう美由紀ちゃんの話によると、おばさんは、日々ただ悶々としているだけなんだろ? それに美由紀ちゃんだけど」
 真斗は、軽く咳払いした。
「あの子は、おばさんみたいに秋江さえ黙っていてくれればいいと、保身で必死な人じゃなくて、ただの素直すぎる目の前のことで精一杯の子だと思うよ。お父さんがチカンらしい不安とか、自分の受験や遭った被害のことで手一杯で、秋江の気持ちを考えることまで出来ない単細胞な子。だから──」
「お兄ちゃん、ユッコにはずいぶん理解あるのね。まあ、言われてみれば、ユッコはまっすぐ過ぎるから」
「もう、さ、しょうがねえよ。あっちの家族の問題。冷静に考えろ。おばさんが猫と言うんだから、猫が原因ってことで納得しろ。それと、おまえさ」
「何よ」
「お母さんに昨日、痴漢撲滅運動のせいで、被害に遭ったことが近所に知れたと怒ってたけど。この前、触ったかもおじさんを自ら捕まえる作戦を言い出したろ。矛盾するじゃん。そんなことしたらそれこそ……」
「それは……私は、切った人と触った人は別だと証明出来れば」
「だから、もし囮になって捕まえたら、また近所の話題になる。お前の怒りは、自分がやろうとしていることの否定になる」
 秋江は、また枕をぶん殴りたくなる気持ちを必死で抑えた。
「お兄ちゃん。それなら」
「何だよ。その目」
「──女装して」
「はあ?」
「電車に女装して乗って。触ったかもおじさんを見つけて。私が指示を出す。お兄ちゃん痩せてるし、ほら、前に法事で集まりがあった時、周りから、羽生結弦くんみたいねって言われてじゃん。女装したらかなり……」
「断る! 絶対に嫌だ。もし女装して捕まえたとして、いや、そんなことはもちろんしないが、もっと激しく近所の話題になりかねねえぞ。ほんっとにおまえ、馬鹿なんじゃねえの?」
「その口癖、やめなよ」
「話を逸らすな。とにかくやらない」
「──私の気持ちは。ねえ、私の辛さは、誰が受け止めてくれるのかな。ユッコはいいよね。ベラベラお母さんや私に話すから」
「親に言わないことに決めてるのは、自分だろ。自分で自分を追い込んでるくせに。それに、なぜおじさんをそんなに庇う?」
「庇ってないよ」
「──とりあえず、おまえの気持ちは、俺に吐いとけ。もう、吐いてるだろ」
「──お兄ちゃんて、ほんとはいい人なんだ」
「なに、その棘のある言葉。やたら部屋で暴れられると迷惑だからだよっ。じゃあな」
 真斗が去ったあと、秋江は大きなため息をついた。家族の問題。これはユッコの家の、木田家の問題。おばさんにしてみれば、公にならないように必死なんだ。私は、ただの被害者。おとなしく黙っていて欲しい被害者。目障りな被害者。猫──おじさんの作品は、猫が主体──私のスケッチをした時、猫の耳を描いて消した──なんで? 猫……。 

 翌朝、秋江はパジャマから制服に着替える前に、ブラジャーをつけようとして苦笑いした。階段を下りて、キッチンで朝食の準備をしている美怜に怒ったように言う。
「ママっ! ブラジャーがきつくなった。もういっこ上のカップのやつ、買っといて。いつものママのセンスにまかせる」

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