第17話  ドライヤー        黒崎つぐみ

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「木田さんのお宅ですか」
「はい、そうですが……」
「こちらは港北警察署のものです。木田美由紀さんのお母様でしょうか」
「美由紀に何かあったのですか」
「電車内で痴漢の被害に遭われました。大倉駅構内でお預かりしています。迎えに来られますか」
淡々と電話の声は事実だけを告げる。
順子は携帯電話と財布を手に持ち、コートも羽織らずに家を飛び出していた。1月街は12月とは違う冷たい風が吹いていた。駅までの道を速足で辿る。道すがら邦夫に携帯から電話した。コールが8回虚しくなったが邦夫は出ない。
震える手でLINEに文字を打ち込む。
(美由紀、痴漢された。大倉駅に早く来て)
信号待ちをしていたらピコンと携帯が鳴った。
(すぐ会社を出る)
LINEの青い画面がやけに暗く感じる。
大倉駅までがいつもより遠い。
改札口で駅員に
「警察から電話をもらった木田です」
それだけ言うと
「こちらへどうぞ」
と、すぐ横の事務室へ案内してくれた。
ドアの向こうに、警察署員や駅員に埋もれるようにして美由紀が座っている。
順子の顔を見つけると、美由紀の目に涙があふれてきた。駅員に椅子をすすめられると順子は美由紀の手を取り撫でた。順子の冷たい手に美由紀の熱が伝わって来る。美由紀の頭を抱え込むようにして抱き寄せた。順子はその頭から美由紀が感じた不安や恐怖を自分の胸に取り込むことが出来たらどんなにいいだろう、と思った。
「署の方で調書を書いてもらっていいですか」
二人が落ち着くまで数分待ってくれていた警察官に促され、パトカーに乗せられた。
パトカーに娘と乗るなんてことが実際に起きるなんて、順子は考えたこともない。時刻は9時になろうとしている。この時間にはいつもなら塾から帰って来た美由紀と遅い夕食をとっている時間だった。
 被害届に住所、名前、電話番号など書くように言われた。つい1時間前まではいつもと変わらない日常だったのに、一人の男によってそれが奪われた。
「近ごろ、多いんですよ。被害者がこれ以上増えないためにも、全力で捜査いたしますので」
美由紀に代わって被害届を書いている順子に、警察官がなだめるように語りかける。順子はほかのまだ見ぬ被害者のことより、今は美由紀のことだけを考えたかった。美由紀は警察官に尋問されるようなことはしていない。しかし加害者を唯一知る美由紀の供述は捜査の有力な手がかりとなるだろう。加害者のことや、何をされたのか、という細かな問いに、美由紀が思い出しながら答える様子を見ていると、もう一度傷つけられているような痛々しさを覚えた。美由紀の表情はこわばって、何かを内に押し込めようとでもするかのように時間が止まっている。そのときドアが開いて邦夫が入ってきた。
「遅かったじゃない」
順子の言葉には棘がある。
「今、駅に行ったらこちらだと聞いてきた。家にも寄って来たから」
邦夫が美由紀に近づこうと体を寄せた時、美由紀は反射的にのけぞって避けてしまった。
大倉駅の監視カメラを別室で調べていた若い警察官が部屋に入ってきた。隣の部屋で当該の不審者を見て欲しいという。3人は後ろ側から写されている男の映像を見せられた。長身、長いコート、耳の後ろで跳ねている長髪。美由紀が後ろから見た男の姿だった。美由紀が「この人」と指差すと若い警察官は何か確信を得たのか、年長の警察官に目配せをした。
順子は廊下に出た時、コートと荷物を隣の部屋に取りに行った美由紀と邦夫の後姿を確認すると、若い警察官に小声で聞いた。
「捕まるのですか」
若い警察官は当たり前のように
「常習ですよ。起訴まで持ち込めればいいんだが……」
年長の警察官が続けた。
「なかなか現行犯で捕まえられなくてね。被害者の証言が頼りなんですよ」
「捕まったら、娘が顔を確かめるために、直接加害者に会うのでしょうか」
「いえ、それはありません。別室から特定してもらいます」
順子が
「捕まると、男はどうなるのですか」
と、さらに聞くと
「2週間の拘留。起訴されて有罪が確定されると犯罪歴として記録が残るけど、アイツどんな仕事してんだろなあ」
「真面目な会社だと2週間拘留されているうちに会社にバレて仕事を失うけど、そうじゃなきゃ、こちらから言わないと犯罪歴があるなんてわからないからなあ。本人が懲りなきゃな」
二人の警察官は世間話でもするようにしゃべっていたが、腕時計に目をやると
「じゃ、きょうはこれで。今回は各駅停車だったから良かったですよ。準急や急行だともっと犯行がエスカレートするから。お嬢さん、しばらくは電車に乗れないかもしれませんよ。徐々に普通の生活を取り戻して欲しいけど。まずは各駅停車かな」
「通勤通学客が多い時間帯には私服警官が乗り込むこともあるんですけどね。埼京線は駅間が長くて混んでいるから痴漢が多いんですよ。ここは時間帯がまちまちで。捕まえたらご連絡します」
ちょうど美由紀も中年の女性警察官に背中を支えられながら廊下に出てきたところだった。
「お世話になりました」
三人は言葉少なに警察署をあとにし、ファミレスで遅い夕食をとった。
痴漢が襲ってきたときにできた唇の傷に、大好きなコーンスープが沁みるのか、美由紀が顔をしかめた。

家に帰るとまず一番にお風呂を沸かした。
「一人で入る? 」
順子が聞くと、うん、と小さく頷いた。
長い長い入浴だった。警察署で調書を書く際に美由紀が話していた犯行の一部始終が順子の脳裏に鮮やかに映し出される。後ろから伸びてきた手は口を塞ぎ、もう一方の手はコートの下へと伸びてきた。肌に直接触れる直前で急に解放されたらしい。制服のブラウスの上からまさぐられるだけでも、そのいやな指の感触は美由紀の肌に残るだろう。きっと忘れたい一心で何度もゴシゴシこすり洗いしているだろう。順子は居ても立っても居られなかったが、美由紀が風呂から出てくる前に邦夫に確かめたいことがあった。
「話があるの」
邦夫は気が乗らない素振りでリビングのソファの上で胡坐をかいた。
「もし、犯人が捕まって示談にして欲しいって言ったらどうするの?」
ファミレスで美由紀が邦夫に対し、もし痴漢をしたのなら秋江に謝って欲しい、と告げたあと、順子は大きな不安の中に居た。秋江に謝ることは罪を自ら認めることになる。秋江の親は犯人が名乗って来た時に告訴するだろうか。秋江の父親勝茂は県会議員だ。痴漢撲滅運動と銘打って自主防犯活動パトロールの参加者を募っている。事が大掛かりになりすぎた。たとえ犯人が娘の親友の父であっても、手心を加えるようなことはしないだろう。
勝茂の知る所となると、「示談にして欲しい」など言えないだろう。順子の足元から日常が崩れていく予感のする不安であった。
短い順子の問いかけに邦夫は無言だった。
「あんな奴、美由紀の前に二度と現れないようにして欲しい。できるだけ長く牢屋に入っていて欲しい。でも実際は起訴されて実刑を食らうのはホントに悪質な痴漢だけで、起訴猶予か示談になるのが関の山なんだって。警察はそんなことはきょう言ってなかったけれど、私、いろいろ調べたの。でも、美由紀がこんなことになって考えが変わったの。私は自分の性欲を抵抗できない娘に押し付けてきた男が許せない。示談とか、なあなあで済ませたくないの。これから美由紀が異性に対して素直な気持ちで接することが出来なくなったら……」
思いつめたように少し涙ぐんで話す順子だったが
「ヘンな奴が居ただけさ。美由紀は今はショックで興奮しているだけだよ」
と、平静に応える邦夫に腹が立ってきた。
「男の人って、よく触られるのを嫌がる女の人に『触ったって減るもんじゃなし』って捨て台詞を吐くでしょ。私はその台詞を聴いたとき最低な男だと思っていたの」
邦夫はにんまりと笑うと
「そういう奴は最低だな。痴漢にだっていろいろあるよ」
「痴漢はみんな痴漢だと思うわ」
「むきになるなよ。でもどうしてあんな手足の長い、女っぽくない子を狙ったかな。今度遭ったら蹴っ飛ばしてやれって。男役目指すならそのくらいやってやれって言いたいけどね」
邦夫は順子の真面目な顔に向けて、ファイティングポーズをとり、立ち上がると、足を蹴りだす真似をした。美由紀に似た手足の長い体型が急に動くと予想外に威圧的だった。順子が足を避けようと体を丸くしたとき、風呂場から美由紀が戻ってきた。何が起きたから知らない美由紀は
「お母さん、大丈夫? お父さん、お母さんに何をしたの? 」
 と、邦夫に食って掛かった。
「何でもないのよユッコ。お父さんがね、次アイツに遭ったら蹴とばしてやれって」
「そんなこと、できるわけないよ。怖くて声も出なかったんだから」
髪の毛からつま先まで入念に洗ったのだろう、シャンプーとボディソープのいい匂いがした。
「お母さん、もう少しここに居ていい? お母さんも居てくれる?」
美由紀が湯冷めしないように毛布で体を包むようにしてソファに並んで座った。
邦夫は風呂に入って来ると言い残して部屋を出て行った。
「ドライヤーかけましょうね。濡れた髪が冷たくならないうちに」
髪の毛を乾かしてあげたのは小学校低学年以来だったかしら、と考えながら無言で手を動かした。乾かし終わると美由紀の手が順子の手を探した。手をつなぎ、横に座ると目をつむった美由紀に話しかけた。
「長い一日だったわね」
順子が言い終わらないうちに、美由紀は寝息を立てていた。

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