第16話  鉄橋     芦野信司

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 学校が始まり、八日から始まった音楽スクールも受験に向けての追い込みの鞭が入ったかのような厳しい空気になった。美由紀のこの一年の成長については先生も認めてくれたが、今の美由紀には一時の気迫が感じられない。もっともっとがむしゃらでないと、聞く人を感動させられない。音楽を甘く見ていないか。……… それが、先生の指摘だった。
 美由紀は、ただ俯いて聞くしかなかった。自分は油断していた。先生の言葉は美由紀の慢心を一突きした。
「宝塚に入ったらもっと厳しいからね。もう中学生じゃあないんだから、しっかりしなさい」
 美由紀は、心の中で「三月までは中学生なんだけどなあ」とつぶやいていた。

 レッスンが終わり日吉駅に向かう。この間までは忘年会で賑わっていたのに、今は新年会で賑わっている。飲食店街は時間が遅くなればなるほど通りたくない場所になる。遠回りしてカラオケ店の前を行く手もあるが、邦夫と出くわさないとも限らないので、美由紀は、我慢して飲食店街を通り抜けることにした。それにしても、なぜ大人はあんなにだらしなく酔っぱらうのだろうと思う。大きい声を出したり、ぺっぺと唾を吐いたり。……… 美由紀は顔をしかめながら、トートバッグにつけた防犯ブザーを握りしめた。もし、酔っぱらいに絡まれたらこれをならしてやるのだ。相手が怯んだ隙に逃げればいい。元陸上部の脚で、颯っと。……… もっとも、美由紀が地味な学生用コートに身を包み足早に通り過ぎるせいか、防犯ベルが活躍したことはなかった。
 電車は比較的空いていた。立っている乗客はなく、空いたシートもまばらに
あったが、大倉山までは二駅だけなので、美由紀はドアのところに立っていた。
 ガラスの外の夜景をぼんやり眺めながら、天乃くれないだったらどんな酔っぱらいを舞台で演じるだろうと想像していた。スポットライトの中、紫色の上下のスーツを着た彼女。大きな襟のシャツをはだけてよれよれと歩く。スポットライトも同時にたゆたう。目が回るようだ。暗い舞台の袖の方から彼女を馬鹿にする声がかかると、そっちの方へ鋭い視線を送る。前髪がはらりと額にかかり、傾けた顔の角度だけで声の主を凝視している様が分かるのだ。そして、唾を。……… 唾の飛ばしようは難しいな。下品にかっこよく、ぺっと。……… 難しい。
 電車は綱島駅を出て、鶴見川の鉄橋を渡り始めていた。
 その暴力は突然に始まった。
 外を見ている美由紀の体をドアに押しつけるような圧力が背中に加わり、美由紀が振り返るともうそこには覆い被さるような男の大きな胸があった。男の右手が下から美由紀の顎を押し上げ、掌に顔半分がふさがれた。痛みで声が出そうなのに、口も開けられない。耳元で「静かにしてろ」と臭い息が囁く。美由紀の顔半分はドアの窓に押しつけられたままだ。鉄橋をわたる振動がガラス窓から美由紀の頭にごつごつ響く。男は、さらに強い力を美由紀の体にかけて来るので、胸や肩の骨が悲鳴を上げる。苦しさで、顎ががくがく震えた。しかし、声にはならない。鼻からもれる微かな息だけが自分のものだと確認できるくらいで、あとはすべて男の力に組み敷かれ、身動き一つできなかった。
 目の開けられるのは右目だけ。ガラスの外の暗闇と電車内の明かりの反射が見えた。男の黒いコートがそれを隠すカーテンのように垂れている。つま先の細い黒い革靴が真下にあった。
 男の左手が伸びてきて、美由紀のコートの前部を探っている。男の指がコートのボタンを探り当てると、一つ、二つ、三つと外していく。美由紀は、苦しいながらも、男が何かものを取るために探っているのかと瞬間思ってしまうほどゆっくりとした動作に感じられた。男の指は、美由紀がコートの下に着ているブレザーをよけ毛糸のベストを嫌がるように腰の方に回り込んできた。腰の後ろをさぐり、臀部に下りてくる。男の指は迷うように動き回った末に、すっと太股を下りてきて、スカートをたくしあげた。男の指がスカートの内側で美由紀の太股を上ってきた。美由紀は、嘔吐しそうな気がして背中を丸めた。痙攣のような波が背中を襲った。
 大倉山駅到着がもうすぐであることの社内アナウンスが流れ、男の圧力はすっと消えた。革靴が離れていき、何事も無かったように隣の車両に移って行った。美由紀は、その時やっと男の姿を斜め後ろから見上げることができた。長髪を耳の後ろに撫でつけており、後れ毛がはねている。長身で細身のコート姿だった。
 美由紀は体が崩れ落ちそうなほど力が抜けた。今過ぎた時間は何だったのだろうか。わずかな時間。一分も無かったかも知れない。それなのに自分は何をすることもできなかった。美由紀は自分の体をガラスのドアにもたせけかてやっとの思いで支えていた。喉も乾ききって声も出せない。トートバッグを胸に引き寄せ、そこに防犯ブザーが下げてあるのを見つけた。今更遅いとは思いながら、立っていることもままならない自分の状況を助けてもらいたかった。ブザーの表にあるボタンを押した。しかし、接触が悪いせいか力が入らないせいか、ベルは鳴らなかった。そこで、ブザーの底についいるピンにひとさし指を差し込み、抜いた。ブザーは思った以上に高い警報音を発した。
 周りにいる乗客がいっせいに美由紀の方に目を向けた。さっきまで、美由紀の苦境を知らずにいたひとたちが寄ってきた。四十がらみの女性が、身を屈めて美由紀の体を支えてくれた。
「どうしたの。唇が切れているよ」
 美由紀はやっとの思いで「チカンです」と言った。そして、男が去った隣の車両への扉を指さした。
「えーっ」女性はブザーより高い声を張り上げた。そして、「誰か見た?」と周りを見渡した。「三十歳ぐらいの男が向こうに行った」という人がいた。
 電車は、一番線に入線したばかりだった。女性は、鳴り続けているブザーを手に持つと、隣の車両への扉を開け、高くかざした。
「痴漢が、この車両に逃げてきたようです。誰か知りませんか」
 女性は勇気を振り絞って叫んでくれたが、降車のために移動する乗客たちが振り向く程度であった。
 ドアが開き、ホームに人々が吐き出された。
 美由紀は女性に「ありがとうございました。私もここで下ります」と言って、ブザーを返してもらった。ピンを戻すと音は消えた。
「あなた、まだふらふらしてる。大丈夫?」
 電車が再び出発しようとしていた。女性は美由紀の腕を取ってホームまで一緒に降りてくれた。そして、ベンチに美由紀を座らせ、駅員を呼びに行った。

 美由紀は、一階の改札のすぐ横にある事務室に連れて来られた。狭い部屋で、駅員がいつも使っていると思われる事務椅子に座るように言われた。親切だった女性は、ホームで美由紀を駅員に引き渡すと、後続の横浜行きに乗って行ってしまっていた。
 パトカーが到着し、警察官が二人事務室に入ってきた。それだけで、事務室は満杯の状態だった。美由紀はそこで事件のあらましを聞かれた。男の特徴については詳しく聞かれた。そして、駅員には美由紀が乗っていた電車の大倉山駅の到着時刻と、その先の菊名駅、横浜駅のそれぞれの到着時刻を質問していた。駅に設置されてある監視カメラを確認するということだった。もし可能であれば、この駅の監視カメラの映像だけでも見せてもらいたい。データをコピーさせてもらいたいと言っていた。
 そんなことをしている間に駅員が家に連絡を取ってくれたらしく、順子が事務室に入ってきた。コートを着る暇もなかったのだろう。順子は家にいる部屋着のままであった。駅員から丸椅子を勧められた順子は、それに座るなり美由紀の手を取って「かわいそうに」と手を撫でてくれた。美由紀は泣きはらした目を順子に向けた。
「お父さん、これから会社を出るって」
 美由紀は頷いた。その唇は、男から顎を押さえられたとき自分の歯で噛んだらしく、下唇の一部が腫れていた。美由紀の握っているハンカチには、唇を拭いた血が滲んでいた。
 美由紀と順子はパトカーの後部座席に乗せられ、駅から数分という近さの警察署に向かった。
 警察署の二階。すでに時計は九時近くになっていたので署内はがらんとしていたが、残っている人たちは次々入る電話や来訪者の相手で大忙しの様子だった。酔っぱらいがいたり、包帯を巻いているけが人がいたり。
 二人は小部屋に案内された。中年の女性警察官が二人の前に座り、テーブルの上に書類を出した。
「夜遅いのにごめんなさいね」と警察官が優しく美由紀に声をかけた。「おなか空かない?」
 美由紀はかぶりをふった。
「そうね、食欲どころじゃないかもね。……… こういう事件は記憶の新しいところで記録しておくことが大事なので協力してね」
 警察官は順子に向かって言った。「被害届を出すか出さないかは本人の自由ですが、お嬢さんが遭われた事件は、今後とも同じような被害が発生しかねない事件です。このごろ多発しておりますので、それを防止するためにもご協力をお願いします。お嬢さんに代わってこの被害届を書いてくださいますか。書き方は私が指導しますので」
 順子は「よろしくお願いします」と言って、頭を下げた。
 美由紀は、警察官から尋ねられるままに事件のことを思いだしながら答えた。順子は、それを被害届に書き直した。
 警察官の質問が一区切りついた時、美由紀は、東上勝茂が配っていたパンフレットのことを思い出していた。政治家らしい売名活動、あるいは票集めの活動じゃないかと胡散臭さばかりを感じていたが、もしかしたらそれは歪んだ見方だったのではなかったか。秋江の事件に対する父親としての憤りももちろんあっただろう。だが、それだけではなかったのではないか。夜間に多発するいろんな事件を少人数で対応しなければならない忙しさの中、美由紀が遭遇した事件に丁寧に向き合おうとする警察官の姿勢。美由紀は、勝茂の活動がその姿勢と相い通じるところがあるような気がした。政治というものが、ふだんの生活を送っていく上で不思議な形をして広がっているんだなという思いがした。
 被害届を書き終えると、警察官は席を外した。別の部屋で大倉山駅の監視カメラを解析中だという。
 邦夫が警察署に着いて、先ほどの警察官に案内されて部屋に入ってきた。座っている美由紀と順子が視線を見上げると、邦夫は立ったまま二人の顔を見つめた。邦夫の目にはやや狼狽の色が浮かんだ。
「遅かったわね」
 順子の言葉には刺があった。
「いったん家に戻って車で来たから」
 邦夫は、警察官に勧められた椅子に座った。それは先ほどその警察官が座っていた椅子だった。邦夫はテーブルに手をついて、前のめりになって美由紀の顔をのぞいた。
「唇が ……… 」
 近づいてくる邦夫の影に美由紀は痴漢の男の胸を思い出し、反射的にのけぞってしまった。そして、身を丸めて邦夫をにらみ返していた。順子が、怯えた美由紀の肩を抱いた。
 邦夫は、美由紀の眼光に目を合わすことができなかった。机の上に視線を泳がせて、立っている警察官を見上げた。
「お嬢さん、ショックだったんです。……… 怖かったのよね」優しい声だ。
 その声に励まされるように、美由紀が口を開いた。
「怖かったんだから ……… ほんとに怖かったんだから」
 小さな声。邦夫を怖がってしまったことを謝るように、美由紀は笑顔を見せようとした。でも、かえって頬が引きずってしまい顔面が歪んだ。
 美由紀の右手が勝手に震え出した。
 美由紀は、自分の手を不思議そうに眺めた。
 警察官は「水でも持ってきましょう」と言って、出て行った。
「お父さんが来たんで、ほっとしているのに」
 体が怖がっている。
 美由紀は、自分の意志とは違うところで体が勝手に反応する不作法を恥じた。
 水がきた。
 順子が手を添えて飲ませてくれた。
 警察官は再び部屋を出て行った。
 震えは少しおさまった。順子に抱かれていると、美由紀は落ち着いてきた。邦夫は黙ったまま、そんな美由紀の様子を見守っていた。
 三人とも押し黙ったままの時間が十五分ほど経ったとき、ドアが開いて、男性の若い警察官が入ってきた。防犯カメラの映像を見てもらいたいという。
 美由紀は順子に肩を抱かれながら部屋を出た。邦夫はその後に続いた。執務室内の机の上にパソコンのディスプレーが明るく光っていて、その周りに椅子が用意されていた。三人は椅子に座り、画面を見た。
 男性の警察官の説明では、このビデオは事件のあった電車を降りた乗客が大倉山駅の改札を通った時のもので、その中に不審な男が見つかったという。
「ビデオをゆっくり動かします。改札をすり抜けた男がいるんです。ほら」
 警察官の指が、一人の男を差している。男は、改札を通るとき前の客と異様に密になって通っていた。自動改札機にパスをかざすふりをしている。
「加害者に似ていませんか?」
 美由紀はディスプレーに顔を近づけた。荒い画像ではあるが、長髪を耳の後ろへ撫でつけ、後ろ髪が跳ねていることはわかった。
「たぶん、この人だと思います」
 美由紀の答えに若い警察官は満足したようだった。
「パスの個人データが機械に残るのを避けたんでしょうね」

 邦夫が運転する車は、ファミレスの駐車場に入った。食欲は三人とも無かったが、おなかに何か入れなければならないという義務感でとる遅い夕食だった。
 サンドイッチ、ジュース、春巻き、サラダなどを単品でとって、みんなで分けた。
 そんな食事でも、美由紀は少し元気になった。笑顔も戻った。そして、邦夫に言った。
「お父さんが来たとき本当に安心したの。……… うれしかった。でも、お願いがあるの。もし、お父さんがアッキーにチカンしたというのが本当だったら、どんな形であってもいいので謝ってほしい。お願いします」
 美由紀が頭を下げ再び顔を上げたとき、美由紀の涙目は微笑みに輝いた。

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