第15話 シェーレ01  かがわとわ

kokuban.jpg【 初めまして。シェーレ01さんの、崇拝者のひとりです。美由紀さんの親友、東坂秋江の兄でもあります。是非今度、秋江と共にお目にかかりたいのですが、いかがでしょう。お返事お待ちしております 】
 真斗がシェーレ01のツイッターにダイレクトメッセージを送ったことで、秋江はその日のうちに、おじさんに連絡を入れることにした。スマホのメッセージ機能を通じて、電話番号からおじさんにメッセージを送信すればいい。年末に大倉山駅の入り口で待ち伏せした時にこちらの電話番号を教え、一度やりとりしているから、履歴で向こうの番号はゲット済みだ。おじさんがLINEを入れているか訊いておけば良かった。秋江は十八歳未満なので、こちらからはLINEの友だち検索機能が使えない。とにかく急がないとやばい。つじつま合わせをしなければ。
「秋江です。兄がそちらにメッセージを送信したと思います。まだ見てなかったら、見て下さい。驚かせてすみません。スバリおじさんは、シェーレ01ですよね。それについて、相談したいことがあります」
 とりあえずそこまで送信して、続きを入力していると、すぐ返信が戻って来た。
「明日午後一時に、こちらから電話する。電話を受けても問題ない場所にいるように」
「了解です。まだ兄には返信しないで下さい」

 翌四日。秋江は「ちょっとコンビニ行ってくる」と、スマホとお財布を持って家を出た。近所のコンビニの、駐車スペース。店から離れた端っこのほうで待っていると、一時きっかりに着信があった。わかっていながら、びくっとする。
「あ、どうも」
「見たよ。ダイレクトメッセージ」
 おじさんの低い声は、なんだかスパイ仲間からの電話のようだ。
「──ってことは、簡単に認めちゃうんですね。シェーレ01」
「察するところ、私がサイトに公開している作品を見たのだろう? それしか考えられない。君は作品を見ているからね。まったく君という子は──」
「あたりです」
「まさか君のお兄さんがサイト仲間だったとは。お兄さんが集うサイトを一緒に見るほど仲がいい兄妹(きょうだい)だったんだね。以前の君の話では、そんな感じではなかったが」
「いえ、知ったのは偶然です。とにかく、兄がおじさんの大ファンで。あの、えっと、おじさんの作品を兄が見ているところを、私が偶然見て、あ、この端切れの絵、ユッコのお父さんのって、うっかり言ってしまったんです。そしたら、兄が興奮しちゃって、是非、会いたいと」
 おじさんは、短い間、無言になった。スマホを通して街の雑踏のような音がする。
「ぼぼっ」
 溜息を吐くような音が続いて聞こえ、
「うっかり言った……と」
「最初におじさんが日吉のホームで、大丈夫かと声をかけてくれた時に、猫の絵も見たからと。そこまでしか話してません。あの時点では猫の絵は未完成だったけれど、完成間近を見たからわかると。そこはごまかしてあるので。だから、おじさんもつじつまを合わせてください。よろしくお願いします。カラオケ店や喫茶店でのことは、もちろんふたりの秘密です」
 ふたりの秘密、と、自分が発した言葉に、秋江はなんだか恥ずかしくなった。
「君の言い方だと、私が返信をすること前提、会うこと前提に話を進めているようだが」
「会ってくれないんですか。おじさんの自慢のコレクション、兄に見せてやってくれませんか。鋏のお話を是非」
 また少し、間があった。
「──しかたがないな。場所とか時間とかはどうする。私は了解の返事だけ出せばいいのかい?」
「うわっ、ありがとうございます! えっと、えっと、それは」
 秋江の頭は、高速回転した。真斗は、秋江がおじさんのチカン疑惑についての疑問を確かめるためにコンタクトをとってくれたのだから、当然その話になる。内容が内容なので、
人が周りにいる喫茶店というわけにはいかない。大倉山公園──知り合いに目撃されるリスクが。あのカラオケ店──絶対だめ、あそこは秘密の場所。
「あの、兄が場所とか考えてくれてるみたいなんで。おじさんはオッケーのお返事だけで」
「──わかった。それじゃ」
 唐突に電話は切れた。秋江は、もうちょっと話したかったのにと、物足りなさを覚えた。
 コンビニの店内に入って、アリバイの「悪魔のポテトチップス」と「ココナッツシュガーチョコレート」を買うと、ふうと、息を漏らしながら外に出た。お兄ちゃんにもおじさんにも、少しずつ嘘をついている。そして、ユッコへの秘密は積み重なり……。気がつけば、みんなに嘘をつきまくる羽目に陥っている。相手によって、ある事は秘密を共有し、ある事は嘘でごまかし……。関係がどんどん複雑になってきている。
「ああ、脳みそ、マジで疲れる」
 車止めをつま先でキックしようとして思い直し、踵でガツンと蹴った。

 家のドアを開けた秋江に、待ち構えていたように美怜が駆け寄って来た。
「さっきパパから連絡があってね、今、明治神宮の近くにいるから出て来て、一緒に初詣に行かないかって」
 勝茂は今日も用事があると朝から出かけていた。
「え~昨日ユッコと行ったばかりだもん。やだ」
「昨日と神社が違うじゃない」
「パス!」
「もう。真斗も行かないっていうし」
「だろうね。留守番してるから、パパとデートして来て」
「夜はその流れで、家族でレストランに寄ろうと思ったのに」
「じゃあさ、二人が帰って来たら、それからパパに車だしてもらって、外食」
「そんな面倒なこと、パパも私も嫌よ」
 ──結局、勝茂と美怜で初詣をしたあと、何か美味しい物を買ってきてもらうということに落ち着いた。美怜は、帰ってから夕飯の用意をする気になれないというので。
 メイクをバッチリ決め、ピンクグレーのチェスターコートに身を包んだ美怜が、ヒールブーツのファスナーを上げて出ていくと、今度は、二階から真斗が急いで降りてきた。
「シェーレ01から、レスが来たぞ。ついさっき」
「えっ、もう?」
「もうって、メールしたの昨日だぞ。このまま来ないかと思った」
「やったじゃん。で、どんな……」
 真斗は、ちょっと待ってろと言って、自分の部屋からノートパソコンを持って来ると、リビングのテーブルに置いた。
【 驚きました。思わぬところで人は繋がっているものなのですね。秋江ちやんのお兄さんということは、まだ学生さんでしょう。ご両親にはお知らせしてあるのですか。会うのはかまいませんが、日時などはどうしますか。 】
 ディスプレーを並んで覗きながら、秋江は真斗に、
「まさか、まだ返信してないよね」
 と、確認する。
「当たり前だろ。まず、日にち。俺たちは七日から新学期だし、向こうだって、仕事が始まる。俺たち的には、夜に会うのは無理だから、次の土日の昼間だな。十一日か十二日。それと、場所なんだけど、話す内容がアレだし、人に見られると……。場所は慎重に考えないと」
「さすが、お兄ちゃん! そうなのよ。で、いい場所ある?」
「そんなの、わかんねえよ。これから調べる。秋江も調べろ」
 真斗はパソコンで、秋江はスマホで適当なワードを入れて検索を始めた。秋江が苦戦していると、真斗が「え、ちょっとこれって。うん、これがいい」とぶつぶつ言い出して、「見ろ」とディスプレーを秋江に向けた。
【 大倉山からアクセス便利な レンタル会議室ランキング 】
「何これ」
「俺も初めて知った。レンタル会議室っていうのが、あるらしい。やたら狭いのから、だだっ広いのまでいろいろある。狭くて安いやつだと──真斗は、少人数のボタンをクリックする。
【 横浜駅から徒歩三分。一時間 五百円 】
「えええ~。マジ? 安っ」
 秋江がのけぞる。
「テーブル一台、椅子六脚。設備エアコンのみ。飲食物持ち込みOK──これが一番安い。俺たちには、プロジェクターとかホワイトボードとかのある部屋は必要ない。延長もできるけど、一時間あれば充分だよな」
「もちろん、もちろん。お兄ちゃん、すごいっ!」
「え~と、十一日も十二日もまだ空きがある。早く押さえたほうがいいな。──あっ」
「なに?」
「予約ページに入ってみたら、土日は、千円になってる。平日は五百円なのに」
「あ~。でも、しかたないよ。ふたりで五百円ずつね」
「はあ? お前に頼まれてやってんだろ。全額払えよ」
「何言ってんの。お兄ちゃんの崇拝するシェーレ01に会えるのは、私のおかげじゃない。私よりお小遣いもらってるくせに。けち」
 あやうく、喧嘩になりそうだったが、それどころじゃないと、まずシェーレ01こと、おじさんに返信を返すことにした。おじさんからの短い回答がすぐにあり、会う日は、次の土曜日、十一日と決まった。すぐに予約ページから、十四時から一時間を押さえた。横浜駅西口で十分前に待ち合わせることにし、場所は私たちが案内しますと連絡した。
「いよいよ、決戦だな」
 気づくと、真斗が、テーブルの上の「悪魔のポテトチップス」の袋を破って、バリバリ食べている。
「あ、それは私の!」
 秋江が手を伸ばすと、
「これ、うまいな。返すよ、けち。十一日、空けとくの忘れるなよ」
 突き返して、階段を上って行った。

 十一日。昼ご飯を食べ終えた真斗と秋江は、時間をずらして、家を出た。美怜には、それぞれ別の用事があると伝えてある。秋江は朝から、クローゼットの前で悩んだ。変にお洒落していくのも変だし、おじさんに、野暮ったいとも思われたくない。この前、喫茶店で会った時には、こんなに考えなかったのに。やっぱり、決戦だからかな。結局、水色のケーブル柄ニットワンピの上からアイボリーのボアジャケットを羽織る、ちょっとだけ女子感ありのコーデに決めた。
 横浜駅には、真斗が先に着いていて、続いて秋江、約束の五分前におじさんがやって来た。真斗とおじさんが、はじめましての挨拶をするのを、秋江は興味深く観察した。真斗は、冷静を装っているが、いつものお兄ちゃんよりテンションが上がっているのがわかる。おじさんは──同じだ。ふたりに対して、子ども扱いの甘いあしらい方はしない。
 レンタル会議室は、西口から歩いてすぐの、雑居ビルに入っていた。同じフロアに事務所があり、そこで受付をして、鍵を借りて入る。真斗と秋江が狭い室内をぐるりと見回して、「なるほどね」「超シンプル」とやっていると、
「よくこんな場所を知っているね」
 おじさんがコートを脱ぎながら、驚いたように言った。コート掛けを探していたようだが、無いとわかって、ビニールレザーの折りたたみ椅子に、くるくると丸めて置いた。椅子が六脚あるので、真斗も秋江も同じように一脚分に自分のコートと荷物を置く。
「いいえ。知りませんでした。ちゃんとお話が出来る場所を探したんです。えーと、レンタル、一時間なんですけど。いいですか」
 おじさんが、真斗の説明に何かを感じとったように、一瞬眉間に皺を寄せたのを秋江は見逃さなかった。
「君たちが、料金を払ったの? こんなことをしなくても私がどこかの喫茶店か、ランチを兼ねて予約をしておいてあげたのに。私が払おう。失礼だけど、いくらだい?」
「会いたいとお誘いしたのは、僕たちですから」
 早くも真斗の顔つきが硬くなっているので、
「千円! 一時間千円なんです。安いでしょ。千円なんて、喫茶店のケーキセットよりちょっと高いくらい……あ、そうだ。ここ、飲食自由なんです。駅の自販でホットコーヒ三人分買ってきました。と、これ。悪魔のポテトチップスっていうんですけど、私いつもコンビニで……だから、とにかく、安いんです!」
 秋江は、トートバッグから次々出して、机に並べた。もちろん、お兄ちゃんにあとで折半してもらうつもりだ。おじさんの顔が、少し柔らかくなった。
「そうは言っても、子どもに払わせる訳にはいかないよ。まあ、あとでなんとか考えよう。へえ。そうか。こういう場所がレンタルで借りられるのだね」
 ──きっとおじさんは、端切れ制作の場所に、いいと思っているに違いない。それは嫌だ、と秋江は思った。こんな殺風景で、蛍光灯の白っぽい明かりの部屋より、カラオケ店の、照明を目一杯上げても少し暗い部屋で。低いテーブルに被さるようにして。制作するおじさんの横顔が、指先が、秘密めいていて──いいのだ。そりゃ、おじさんには、こっちのほうが布の色合いがわかりやすいし、テーブルだってこっちのほうが作業しやすいと思う。でも……。
「よし。わかった。一時間だね。では真斗くん」
 おじさんは、さっき駅で知ったばかりの兄の名前を自然に発した。口元は、最初に会った時の優しい微笑みになっている。
「せっかくだから、私の鋏のコレクションをいくつか持って来たよ」
 おじさんが、鞄に手をかける。
「うわ、本当ですか」
 真斗の目に、素直な喜びがあふれるのを見て、お兄ちゃんてこういう顔するんだ、と、秋江はぽかんとした。おじさんは、鞄からウエットティッシュを出すと、テーブルを丁寧に拭い、表面に残った水分を更にテッシュで拭き取った。鞄と別に持って来た袋から、あのカラオケ店で見た薄い革張りの箱をカタン、と小さな音をたててそっと置く。
「鋏に触る前に」
 と、自分と真斗と秋江にもウエットティシュを渡し、手指を丁寧に清めるあれをやらされた。
 蓋を開けた時、真斗が息を呑むのがわかった。
「うわ。ゾーリンゲンのクラシックデザイン! ツヴィリングJ.A.ヘンケルス、プレマックス、あ、庄三郎も菊一文字もありますね」
 あの時見た物と、同じものもあれば違うものもあった。それからふたりは、フィットカーブがどうだの、スゥィングカットがああだの、グリップの彫刻模様が素晴らしいだの、秋江を置き去りにして、語り続けた。秋江は、適当な鋏を持ち上げて、そっと指を入れた。滑るように開いたので、わからないながら、すごいんだ、と思った。
「さすが、真斗くんは知識があるね。これだけわかっている人と語り合えると、私も楽しいよ」
「いえ、ほんとに、シェーレ01に、神に、直接お話を伺えて、最高です」
 おじさんは、笑みをたたえている。お兄ちゃんはいつになく何かに酔ったような目をしている。これって……おじさんに会っている時の私と同じ? 私もこんな感じに? 教祖に心酔する弟子みたい。秋江は気づくと膝に置いた手を強く握りしめていた。
 残り時間が、あと三十分になると、おじさんは、静かに、革張りの蓋を閉めた。
「これくらいにしよう。大事な話があるんだろう?」
 真斗が夢から覚めたように、顔を上げた。おじさんがケースを片づける様子を見ていたが、はっとしたように、首をぐるりとまわしていつものちょっと冷めた顔に戻って、軽く咳払いをした。
「──シェーレ01さんは。今日は作品に使う端切れは持っていらっしゃらなかったのでしょうか。いつも素敵な作品をあげられているので、その元になる布を実際に見たかったです」
 真斗の問いに、おじさんは動じずに、
「ああ、今日は真斗くんとの話が中心になるから、鋏だけ持って来たんだよ」
「残念です。どんなふうに切り取られているか、見てみたかったのに」
 秋江は、カラオケ店でおじさんが巾着袋から取り出した、色も材質も様々な布を思い出した。角の無いひどく歪な丸ばかりだったような。──布を引っ張ってつまんだ部分を切り取ったら……。そういえば、スカートの穴の形も……。
 おじさんは、うっすらと笑ったまま、
「切り取られている?」
 これから、真斗が何を切り出すかわかっているように、聞き返した。
「それじゃ、はっきり言います。シェーレ01さんは──おじさんは、秋江のスカートを切りましたよね。そして、もしかしたら、日々チカンをして集めた布で、あれらの──サイトにアップしている作品を制作しているのじゃないですか。秋江から、聴きました。おじさんにホームでいたわりの声をかけてもらったこと、そのベンチで端切れ作品を見せてもらったこと、そのあと、スカートが切り取られていることに気づいたこと。それを繋ぎ合わせると」
「あまりに安易じゃないのかね? 証拠があるのかい。端切れの作品を見せたからって」
「秋江はおじさんが美由紀ちゃんのお父さんだと気づいて、好奇心から同じ車両に乗り込み、気づかぬようにおじさんに背を向けて立っていた時、被害に遭ったんです」
「──え。本当かい? 君は私の近くに立っていた? ……」
 おじさんの笑みが崩れ、秋江を見る瞳が微かに揺れた。
「そして、こう言ったそうですね。──布たちは、おじさんが集めた宝物なんだよ、すべてに個性があって息づいている──と。わかっていますよね。あなたの奥さんも、娘も、あなたを疑っていることを」
 おじさんは、キャメルのハイネックのセーターに片手をかけて、息が苦しい人が緩めるような仕草をした。そして、いつもの低い良く通る声で語りだした。
「ある男が──まだ五歳だった時。母親の妹──つまりおばさんが、一緒に庭で遊んでくれていてね。初夏の日差しに彼女のフレアスカートがふわりとなびいて。彼女が動くたびに揺れる裾を追って、手でつかむという遊びを繰り返した。時々つかみそこねると、逃げる彼女のふくらはぎに手が触れる。少し汗ばんでいて、温かくて。薄いオレンジ色で、小花模様が裾に散っているスカートだった。──その生地が収集品第一号。小学生、中学生、高校、大学、社会人になるにつれて、彼は女性を包んでいる布集めのテクニックを磨き、そのための、精巧な鋏にもとりつかれた。女性たちから集めた布は、ただの布と違う。一枚一枚、女たちの物語を秘めている。それらを彼の手で繋ぎ合わせる。合わせ、重ねていくうち、彼女らが呼吸を始める。濃密な息を吐く新しい作品が出来上がる。宝物を集めるのは、満員電車の女から。ギャンブルに気を取られ、心ここにあらずの女から。スポーツ観戦やパレード見物に夢中の女から。花火や祭りの人混みの中……いくらでも」
 おじさんは、真斗と秋江を交互に見ると、
「たとえば、こんな理由。どうだろう?」
 茶化すように、口角を横に引いた。
「そう。昨日はね、妻に別の理由を匂わせておいた。彼女が知りたがっているんでね。猫が死んでから、おかしなことになったのさ、と」
 ──猫? 秋江はおじさんの作品の猫が、まるで生きて動き出しそうだったことや、秋江をスケッチした時に、猫の耳を描いてから消したことを思い出した。
「理由が必要かい? 前にも言っただろう。人間はその人の理解出来る理由を繋ぎ合わせて、都合の良い物語をつくり、わかったつもりになるのさ」
 真斗が、首を傾げた。
「前にも言った?」
 おじさんは、即座に言い直した。
「すまない。別の話と混乱したようだ」
 真斗が、腕時計に目をやった。
「あと、十分です。結局、おじさんは、やったことを認めるんですね」
「だから、証拠がないと言っただろう。君たちが、望むからそれらしい答えをつくってやっただけだ。君たちには、君たち用の理由を。妻には妻用の理由を。娘が望むなら娘が納得する理由を」
 ──途中からは、煙に巻かれたようになった。論点を意図的にずらされ、そもそも切ったのか、切ったとして、触ったのは別の人間かまで話が進まなかった。時間オーバーになった時、真斗が小さく「くそっ」と呟いたのを秋江は聴いた。

 コーヒー缶も、悪魔のポテチも開けないまま、秋江たちは会議室を後にした。おじさんには、用事があると言って、先に駅に向かって帰ってもらった。
 真斗はもっとうまくやる自信があったのだろう。駅に向かう横顔は、怒ったように硬かった。途中で立ち止まると、
「ひとり藪の中みたいなこと、しやがって」
 と、小さく吠えた。
「ヤブノナカ?」
「何か問題事があるとする。関係者の証言がそれぞれ食い違っていて、誰が本当のことを言っているのかわからないってこと。それをひとりでやったと。そもそも芥川龍之介の……っていうか今昔物語……説明するの面倒だから、あとは自分で調べて」
「──わかった。ごめんね、お兄ちゃん」
「なんか、複雑だ。シェーレ01に会えて、鋏談義が出来て。それは……良かったのか……良くないよな。秋江の問題が、解決していないんたがら。悪い、な。あの人ってさ、なんか変な魅力あるよな。ほんとは何を考えてるのかわからない──」
 おじさん、私のこと怒っているだろうな。もう、話をしてくれないかも知れない。秋江は、とんでもない失敗をしてしまったようで、どんどん重い心持ちになっていった。同時に、何で限りなく犯人に近いおじさんを、被害者の自分がこんなふうに思うのかもわからなかった。──犯人。おじさんは、「切った犯人」に違いないと思う。でも、「触った犯人」でもあるのか。また、そこに思考が行く。
「お兄ちゃん。切っただけなら、チカンじゃないよね?」
「は? 切っただけでも、犯罪だ犯罪! 立派な罪! おまえ、まさかおじさんを擁護しようとしてるのか。馬鹿じゃねえの?」
「おじさんの犯罪が確定したら、ユッコの家は、どうなるんだろう」
「──それは。ああっ、くそっ」
「なんか、うまく解決できる方法ないかなぁ」
「無いから、こんな複雑な渦に巻き込まれてるんだろ」
 立ち話をしている兄妹は、若過ぎるカップルに見えるのかもしれない。大学生くらいの男性グループが「ヒュ~」と、言って通り過ぎて行った。
 不意に秋江が「あっ」と声をあげ、真斗を見上げた。
「お兄ちゃん! いいこと考えついた」
「なにさ」
「私がもう一度、チカンに遭えばいいんだ」
「秋江、頭、狂った?」
「聴いて。私がもう一度、同じ時間の同じ車両に乗って、あの触ったかもしれない舌の黄色いおじさんに近づけばいい。で、ユッコのお父さん──おじさんに、すぐ近くにいてもらう。触ったかも疑惑のおじさんが本当に触ってきたところで、ユッコのおじさんに合図。その場で捉えてもらう。無事、チカン捕獲。ユッコのおじさんは、お手柄。うちのパパとママはチカン撲滅運動のリーダーとして、おじさんをたたえ、ユッコの家族もめでたしめでたし」
 真斗は、はぁぁと大げさな溜息をついた。
「あのなぁ、その触ったかもしれないほうの人が、本当にそうだったとして、いつも同じ時間に同じ場所でチカンすると思うか? すぐに捕まるだろ。だいだいあれほど気持ち悪がってショックを受けてたくせに、自分からって……」
「だから、勇気いるけど、すぐユッコのおじさんに」
「やると思う? あの人だよ? お前のやろうとしていることは、謎の解明のためじゃなくて、おじさんを──」
「やってみないうちに、なんで諦めるのよ。とにかく、〝触ったかもおじさん〟をまず、捜すのよ。そこから、何か方法が見つかるかもしれない」

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