第13話  羽化     芦野信司

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 LINEの電話は一方的に秋江から切れてしまった。有無を言わせぬ勢いで、痴漢問題は自分が何とかするという。何とかすると言っても、どうするつもりなのだろう。美由紀は携帯を自分の机の上に置いた。そして「アッキーは、変わったなあ」とひとりごちた。
 秋江はどちらかというとぼんやりした子だった。何でもママの言うことをきいていた。自分の意見を言わない訳ではなかったが、最後はママの意見に従うような子だった。私立中学進学を決めたのは美怜だったし、この先の人生もママの敷いたレールを進むのかなと思っていたのに。痴漢問題に対し「具体的に何とかしよう」「あとは私が勝手に考えてみる」などと言うようになるとは。
 この頃の秋江には蛹から抜け出そうとする蝶のような変化を感じる。まだ蝶になりきれていない、羽化の最中のような危なっかしさを。……… いつから変わったのだろう。

 振り袖は衣紋掛けに下げてある。美由紀の勉強部屋にはそぐわない豪華な色彩が部屋の一角を占領している。順子が成人式の時作ったものだという。その写真をかつて見たことがある。友人たちと笑って写っていた順子は、少しぽっちゃりしている上に羽根のショールが派手過ぎて時代がかって見えたが、みずみずしい肌のはりが輝いていた。
 美怜から「きれいになったわー」と言われたとき、ふっと浮かんだのが順子の成人式の写真だった。自分もあんな風になるのかなと。地味な服装を好んで着ているのが自分らしさと思っていたが、派手な振り袖を着たら色っぽくなるかもしれないと夢想したのだった。
 それにしても振り袖を着るのがこんなに難儀なことだとは。美由紀にとっては、七五三以来の振り袖であった。
 最初は順子に着付けを頼んだ。順子が黒豆をだめにしてどこか心ここにあらずの気配があったからだ。正月らしい華やいだ気持ちになってほしい。二人でわいわい言いながら着物を着るという作業をやったら少しは気が紛れるのではないかと思ったからだ。でも、順子は「とんでもない。美容院でちゃんとしてもらいなさい」と言って、行きつけの美容院に予約を取ってしまった。三日の早朝ならできるという。
 それは正解だった。体の凹凸が出ないように枕みたいなものを腰にくくりつけられたり、タオルで胸の形を整えられたりと体を棒のように作り換えられるのだ。それをひもで縛り上げられ、ようやく土台ができる。その上に長襦袢を着せられまた締められる。そうかと思うと、襟を後ろに引かれ首まで締まってくる。そしてようやく着物を着る段になるのだが、着付け師にぐるぐる回されながら体に巻き付けられまたひもで締められる。着付け師は美由紀腋の下の身八つ口に手を突っ込みながらたるみを整え、またひもで締められる。マジックテープのようなものを胸の下にまかれ、ようやく帯び結びとなる。ところが帯だけでも面倒な作業がついて回る。帯が一回りする度に締め上げられる。ゴムの仮ひもで止めて動かないようにした上で、厚い帯布で折り紙を折るように蝶の羽根の形を作っていく。それを押さえるように帯枕を回す。帯揚げでそれを締める。帯締めを回してまた締める。そうしてようやくできあがった振り袖姿。髪も整えられ、化粧もしている。
 美容院の鏡に映った美由紀を着付け師は褒めたけれど、美由紀は失望していた。確かに、振り袖はきれいにできあがっていたが、その上に乗っかった顔は、中学生の女の子そのものの幼さなのだ。グランドで走っていたり走り高跳びで砂だらけになっていた方がお似合いな顔なのだ。口角をあげてみたが、ぎこちない。自然と口が尖ってしまう。「きれいになったわー」と言っていた美怜の赤い唇を思い出す。あの声、あの唇を思い出したくないと美由紀が目をつぶっていると、着付け師が、どうかしたかと聞いてくる。自分がきれいじゃないと主張するのも子供っぽく馬鹿らしいので「ちょっと胸がくるしいと思いましたが、大丈夫です」とごまかした。
 美由紀は一旦家に戻り、リビングにいた邦夫の前で、一回りして見せた。邦夫は、うんうんと頷いただけで、すぐに目は箱根駅伝の復路の中継映像に戻った。
 順子はさすがに褒めてくれた。美由紀の腕を上げさせたり下げさせたりしながら、着物を触る。自分の青春時代をなつかしがるように目を細めた。美由紀は、そんな順子の顔が見られただけでも振り袖を着た甲斐があったかなと思った。
 よく晴れた青い空。大倉山駅で待ち合わせした秋江は普段のコート姿。いつもは秋江の方がおしゃれなのに今日ばかりは反対だ。秋江も似合うと褒めてくれたけれど、目の表情は別のことを言っている。どこか残念な視線を感じる。そうだよね、と美由紀は心の中で頷いた。自分がきれいになったなんて。そんな美玲の言葉に浮かれるなんて情けないなと思う。宝塚がまた急に遠ざかって行くようだった。でも、秋江にだけは絶賛して欲しかったのだ。根拠はなくとも。
 他の大勢の参詣客に混じって師岡熊野神社まで行く間もお参りしている間も、美由紀は内心しょげていた。自分から誘った手前、携帯でツーショットの自撮りをしたり、秋江には元気なふりをして見せたが、振り袖姿が夢見るピエロのあわれな衣装のように思えた。一刻も早く家に帰って脱ぎたい。美由紀はそう思った。お参りの後、どこかお店に寄る?と秋江に誘われたが断ったのもそのせいだった。
 美由紀が家に戻ると、邦夫はまだ箱根駅伝のテレビを見ている。
「ただいま」と声をかけても、自動的に「お帰り」と返すだけ。
 順子は寝室にいた。ドアを開けるとパッチワークの布と針を持っている。
「お母さん、悪いけど脱ぐの手伝ってくれる」
 美由紀は元気のない声で言った。
「えっ、もう脱ぐの?せっかく着たのに」
「ごめん。苦しくて、ちょっと気持ち悪い」 
「しょうがない子ね。……… じゃあ、ここは散らかっているので。あなたの部屋で脱ぎましょ」
 順子はそういって美由紀の部屋に衣紋掛けを出したのだ。
 
 緋牡丹に白梅があしらわれた振り袖。美由紀は、振り袖が豪華で美々しい分だけ美由紀にはまだ不似合いなのだと主張しているように思えた。美由紀は、秋江ならきっときれいだろうなと想像した。白い小さな顔が緋の衣装の反映を受けて上気したようにあかい。小さな手が赤い袖口からこっそり出て……… 指を差し出すのだ。舐めてごらん。
 美由紀は、頭を振って秋江の幻想をはらった。秋江は幼なじみではあっても、美由紀の知らない面が多々生まれてきているのだと思う。日吉のカラオケ店の前で邦夫に向けた秋江の笑顔も忘れられない。すわ援交か、と思わせるような甘えた眼差し。無防備で可愛らしい。……… ほんとにいつから変わったのだろう。

 正月も三日となるとさすがにお節料理もなくなった。遅い昼食は胃を休める意味もあり、天ぷらうどんになった。その間も、邦夫は駅伝を見ている。戸塚から鶴見までの九区。大学生たちの苦しげな表情が次々放送される。三人とも何も言わずに食べた。アナウンサーと解説者、沿道で応援する人たちの声だけが部屋に響く。
 食べ終わると、順子は二階の寝室に行った。パッチワークに戻るためだ。美由紀も自分の部屋に戻った。美由紀はベッドに仰向けになり、天井を見上げた。天乃くれないのポスターが貼ってある。
 秋江は「ユッコには目指すものがあるからうらやましい。自分には無い」とよく言う。自分には宝塚という夢があるので、そのとおりだと思う一方、秋江もほんとはそんな夢を持っているのではないかと疑っている。ただ、いろいろ考えて気づかないだけなのじゃないだろうか。それに対して、自分は単純だ。好きだからやりたい。ただそれだけのこと。簡単、明瞭が一番いいと思っているのに「父は痴漢かも知れない」ということについては、明瞭なところがまるでなく、いつまでも引きずっている。家の雰囲気も、年末からしらっとしたままだ。
 秋江は何をやろうとしているのか。少し不安になる。秋江が被害者であるにしろ、痴漢問題で揺れたのは美由紀の家だ。秋江が動く度、家庭がばらばらになっていく。そんな予感がする。でも、邦夫が痴漢したことを認めるとは考えられない。私が何度追及しても無駄だったではないかと美由紀は思い返した。まさか、それで拷問することもあり得ない。第一、普通に言ったら邦夫は無実なのだ。どこの誰であろうと邦夫に罪があることの証拠を出すことできないだろう。そして、その分、疑いだけが蓄積する。どうしたらいいのだろう。
 美由紀がそんなことを思い巡らせているうちに、駅伝が終わったらしく、邦夫が玄関を出て行く音がした。以前は、散歩に行くとか声をかけていたのに、このごろは何も言わずに出て行く。帰ってきても何も言わなくなっていた。
 美由紀は、順子のいる寝室のドアをノックした。
「入ってもいい?」
「いいわよ」
 順子は、縫い上げたクッションカバーやマットをベッドに置いて眺めていた。洋風の古い布を用いたもので、地味な色合いがセンス良くコーディネートされている。木製の家具に配したら似合いそうだ。
「うわっ、上手。すごいなー。腕が上がったね」
「ありがと。……… 今日は疲れたわね。眠っていたの?」
 美由紀は首を横に振った。
「お父さん、何も言わないで出て行ったでしょ」
「このごろずっとあんな感じね。そのうち機嫌も直るんじゃない」
「お母さんもパッチワークに集中しているし」
「……… そうね」
「今日の初詣、いろいろお願いしてきたんだけど、お父さんのこともお願いしてきた。……… 何をお願いしたかは、言うと叶わないっていうから言えないけど。私ね、お父さん、痴漢したんだと思うの、本当は。……… 実際にしたかどうかは証拠がある訳じゃないから分からないし、お父さんも認めないから分からない。当のアッキーだって半信半疑なんだから、分かりっこない。裁判だったら絶対無罪よね。でもね、直感からすると、お父さんは痴漢した」
「……… ずいぶんいい加減な直感ね」
「……… そうかもしれないけど、私、自分の感覚を信じるしかやりようがない。でも、お父さんは好きよ。痴漢のお父さんは嫌いだけど。どっちもほんと。お父さん、秘密っぽいから。私には分からないけど、よく分からない秘密っぽいところがお父さんらしさじゃないかって思う。だってほら、ピアノを弾くとき指が震えたりするでしょ。お母さん、なぜか知ってる?」
「知らないわね」
「そうでしょ。私にも分からない。でも、お父さんぽい。端切れの工作を隠れてやってたなんて、どうしてか分からないけど、やっぱりお父さんっぽい。お父さんには何か秘密があるのね。……… 私、それが我慢できなくって、アッキーには見せられて私には見せられないってどういうことって怒ったけど。それって私の我が侭だって気づいたの。……… お母さん聞いて。私の初夢は宝塚の面接試験だった。面接官が、あなたのお父さんはどんな人ですかと聞くんで、私のお父さんは痴漢じゃありませんって叫んでいた。夢から覚めてもドキドキしていた。そして、ああ、自分はお父さんが痴漢だと思っているんだと気づいたの。……… それが私の秘密。お母さんにしか言えない秘密。お父さんにも言えない。だって、お父さんが傷つくでしょ。娘が自分を痴漢だと思っているなんて知ったらがっかりするでしょ。お父さんの秘密が何かは知らないけど、きっと私たちが傷つかないように隠しているんだと思う。痴漢もその一つだと思う」
「でも、お父さんが痴漢だったら放っておけないでしょ」
「だから、ほんとうに痴漢かどうかは分からない。でも、私はそう信じている。それにお父さんは自分の秘密を絶対明かさないと思う」
「美由紀は痴漢のお父さんと一緒に住めるの?」
「もちろん。お父さん、好きだもの。痴漢は止めて欲しいけど……… ねえ、お母さん、そんな秘密を抱えながら仲良く暮らせないかなあ。私は暮らせると思うんだけど」
 順子は少し上気したように顔を赤らめ、目をきらきらさせて美由紀の顔を眺めていた。
「……… いつの間にそんなことを考えて。美由紀もずいぶん悩んだのね。……… 振り袖を着たいなんて子供っぽいことを言い出すかと思ったら、こんな大人びたことまで言い出すんだもの、お母さん、びっくりしちゃう」
 順子は、ころころと笑った。
「でも、アッキーにはどう言うの?ご両親のこともあるし」
「アッキーにはどうしようかなあ。でも今は秘密。アッキーだって私の知らない秘密がありそうだし。大人になってくるとだんだん秘密が多くなるのかなあ。このごろのアッキーを見ているとそんな気がしてくる。アッキーは好きだし、一緒にいるとすごくほっとするんだけど、時々ドッキリさせられる。それに私にはない色っぽさがある。頭もいい。この間、アッキーのママを見ていたら、やっぱり似ているんだと思っちゃった」
 順子はそれには答えず、ちょっと黙ったまま何か考えていた。
「さっきの話だけど、やっぱりお母さんには、本当かどうかわからないから直感で判断するっていうことが、何か自分をごまかしているような気がするんだけど」
「お母さんは、お父さんが痴漢じゃないって信じられる?」
「そうねえ、今は信じるって言い切ることができないかもしれない」
「そうでしょ。自分をごまかすって言うのはそっちの方じゃない?……… 楽だもの。……… これは、お母さんにしか打ち明けられない私の秘密なの。自分だけで秘密を抱えているのは辛いから、お母さん、助けてね」
 美由紀の声は泣き声に変わっていた。
「……… 分かったわ。お父さんは痴漢。それを信じるのね。言葉に出すと変だけれど、美由紀の気持ちはよく分かったわ」
 下階で玄関のドアが開き、ばたんと閉まる音がした。邦夫が帰宅したらしかった。



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