第7話 男役  芦野信司(挿絵も)

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「夕食までもうひと頑張りしてくる」
 美由紀はそう母に言い残し、二階の自室に戻ってきた。ビーフシチューのにおいがスエットの上着について入ってきた。美由紀は机の上に開いた教科書のページを二三度めくって見たが、少しも頭に入ってこなかった。
 昨夜、父が美由紀に対し怒鳴った言葉が蘇る。「すねっかじりのくせに」「自分の父親が憎いのか」これまであんな風に怒鳴られたことはなかった。思い出すとまた悔しくなる。
 親に経済的な負担をかけているのは分かっている。高校生になったら、たくさんアルバイトをして、父の負担にならないようにしてやる。そう言い放つことができたら、気持ちは多少すっきりするだろう。でも、それは父へ反発する心が言わせるだけで、本当はやらないだろうと自分でも思っている。宝塚受験のためには、いろいろなことを学ばなくてはならない。高校にはいったら、いままでお留守にしていたバレエを習わなくてはならず、それにはお金も時間も要る。美由紀の家は富裕ではないにしても、世間に名の通ったソフトウエア会社でマネージャーと呼ばれる父が出せないレッスン料ではないだろう。現に、今でも日吉の音楽スクールに毎月五万円の授業料を払っている。高校の音楽科へ入学したら、音楽スクールの月謝をバレエスクールの月謝に振り替えることをねだろうと美由紀はこっそり計画していた。
 まして、美由紀が父を憎いと思ったことなどないのに、なぜあんなに怒ったのか。……… それに、母が急に父に殴りかかったことも美由紀には不思議な光景だった。はじめてみる母の形相。それこそ、髪を振り乱しての暴れよう。アッキーの痴漢話の時はきょとんとしていた母が、昨日は父を責めないではいられなかった。……… 母は父の秘密を知っている。
「そうだよね。私の考えすぎかな」机の上に突っ伏して、美由紀はさっき母に対して発した言葉を思いだし、ひとりごちた。
 もし、父がアッキー以外にも痴漢していて、それを母が知っていることなんてあるのだろうか。何事もないように日常が過ぎていくのに、父も、母も、美由紀自身もみんな別々の方向を向いて生きているのだろうか。

 雨の降り出す音がして窓の外をみると、低い雨雲が大倉山公園の暗い森影に垂れ込めていた。
 美由紀はだんだん暮れていく空を眺めていた。LINEの着信音が鳴った。秋江からだった。
「冬休みになったんで明日会わない?」
 ディズニーランド以来何度か誘いがあったが、断っていた。その履歴が残っている。あー、いやだなと思う。考えすぎか、とひとりごちた。
「明日、明後日はレッスンがあるので、次の日なら会えるよ」と答える。
「やったー。どこへゆく?」と秋江。
「駅で会って公園へいこうか?」
「エー、近過ぎ」
「今週ずっと雨模様だし、二十七日のお昼過ぎに会おうよ」
「ハー」
 秋江は不満らしかったが、風邪を引きたくないという美由紀に合わせてくれた。
 美由紀は、再び父のことについて考えていた。最近の父は以前の父と少し感じが違うような気がしないでもない。たぶん、クララが死んで以来のことだ。しかし、クララの死で変わったのは父だけではないと思っている。美由紀にとっては、記憶にあるときからずっと一緒の存在、家族の一員そのものだった。だからだろうか、家に中に隙間が有るような気がしてならない。不在が家のあちらこちらにあるのだ。本当はそこにクララがいるはずなのに……… クララのいない生活に慣れないときは、よくクララの気配を感じていた。「クララ」と呼びかけて、そこにクララの姿がないことに驚いたりした。美由紀は今でもクララの幻影をリビングで見かけることがある。チンチラ特有の白く長い毛をゆったり広げてソファーに寝そべっているクララ。美由紀はクララほどきれいな猫を知らない。
 家族の一員であったクララだが、クララが一番好きだったのが父であることは見え見えだった。美由紀が小さかった頃、クララを相手に睨めっこをするのが好きだった。リビングの絨毯に寝そべっているクララに近づくため、美由紀も這っていく。すると相手は大きな目を向けてくる。黒いアイラインで大きく縁取られた中に、透き通った輝くまなざし。瞳が縦にすぼまったときの虹彩の黄色。そこに青い影の混じる美しさ。瞳が開いたときの底深い暗さ。その底には知恵が隠されているとしか思えない神秘な色。クララとの睨めっこは例外なくクララの気まぐれで終わるのだが、美由紀はその美しいまなざしに出会いたいためだけで、逃げるクララを追い回した。すると、最後は父の膝の上に乗っかるのだ。そこまで美由紀が追わないことを知っている。たとえ追ったとしても、父が守ってくれることを知っているからだ。父の指になでられるときほどクララの甘えた声を聞いたことがない。時に聞き苦しいほどに雌猫の悶えを見せる。体全体を父の指にゆだね陶然としているのだ。たとえ父の手が鋭利な刃物を握り、そのままクララの首を切っても、何も抵抗することなく静かに死んでしまうだろう。そんなクララだった。

「ちょっとケーキ取りに行ってくる」と下階から母の声。次いで、玄関のドアの閉まる音がした。美由紀はシチューの火が気になって下に降りた。ダイニングとキッチンは蛍光灯で明るかったが、シチューの火は消えていた。クララの居場所だったリビングにダイニングからの光が一部差していた。リビングの窓は二重サッシになっていて、防音カーテンが下がっている。クララのじゃれた跡がひっかき傷として残っている。
 美由紀は、リビングの明かりをつけて、小さな書棚からチェルニーの楽譜を取り出した。かわいい絵が描いてある短い練習曲ばかり。美由紀が父を一番身近に感じたのはピアノを教えてもらったときだったと思い出しながら、ページをめくる。「雨のさんぽ道」。雨を表す細かな指使い。跳ねるように楽しげに。いまごろケーキ屋に向かっている母が、そんな風に楽しく歩いていればいいのだがと思いながら弾いてみた。また、ページをめくる。「おしゃべりなハチ」。これはアッキーかなと思いながら。「ハムスターの回転車」。これは忙しい父かな。みんな小学生の時に習っていた曲。美由紀は懐かしく弾いた。
 父にはピアノに向かうときの癖がある。弾きはじめ、父は両手を鍵盤にかざしたとき、指が細かにふるえるのだ。触るのを怖がるような緊張を感じる。そのあと指がゆっくり鍵盤に降りていく。そして、一音を一音を大事に弾く。また、静かに終わる曲の場合も、鍵盤から指を離すことをおそれるようにゆっくり離し、時にそのまま停止している。その時も緊張して指が少し震える。父にとって、弾き終わった後の静けさも曲のうちなのだ。
 そんな父からみると、美由紀のピアノは粗っぽい。父の気質との違いは、教え始めた当初から父は感じていたようだ。だんだん仕事が忙しくなったこともあって、美由紀が小学三年のときからは近くのピアノ教室でレッスンするようになった。普段は鷹揚な父なのに、ピアノについては厳しく、美由紀が弾く音が耳に障るといやがるので、次第に父の前では弾かないようになった。練習するのは、父が不在の時と決めていた。
 玄関のドアの開く音がして、美由紀はピアノの手を止めた。
「冷たい雨よ。少し小降りになってきたけど」
 母の声。玄関先で滴を払っているようだった。美由紀はピアノの蓋を閉じた。そして、玄関までいってケーキの箱を受け取った。
「わー、ピノンのケーキ。ありがと。冷蔵庫に入れとくよ。」
 美由紀は快活な声で言った。急におなかが空いたのを思い出した。
「お父さん、遅いのかな」
「イブだから早いと思うけど」
「早く帰ってこないかな」
 美由紀は、昨夜のことは自分の思い過ごし、受験勉強でいらついていただけと片づけるのが一番平穏であり、幸せなことだと思うようにした。少なくともそう演じよう。
「電話しようかな。早く帰って来てって」
 美由紀は、リビングのソファーに長く横になって、携帯の番号を押した。父に繋がる。
「あ、お父さん。今どこ?……… じゃもうすぐだね。今日はすごいよ。ステーキにシチュー。春巻きもあるし。早く帰ってきてね。おなか空いちゃったよ。待ってるから。……… じゃあね」
 美由紀はチェルニーの楽譜を書架に戻しダイニングに戻った。リビングの明かりは点けたままにした。なるべく家を明るくして父を迎えたいと思った。
 コンロの火がシチューの鍋を暖めている。母は、焦がさないように腰を屈めて火加減をみている。美由紀は、ダイニングの窓から外を見た。窓が湯気で結露してあまり見えない。指でバカと書いた。
「お父さん、駅に着いたって」
「そう、じゃもうすぐね」
 美由紀は、母に秋江と会う約束をしたことを告げるべきかどうか、少し迷った。美由紀が、父への疑いをはっきりさせるため、秋江を誘ったと思われるのが嫌だった。思い違い。考えすぎ。今はそう思うことが、正しいことだと信じたかった。今日は言わないでおこうと美由紀は思った。
 十五分ほどして、父が帰ってきた。美由紀は玄関に出迎えた。小降りになった雨をついて、コートを頭からかぶって来たという。父は、コートの雨粒を玄関ではたき落とし、靴箱の上に置こうとする。
「ああ、そんなところに置いたら濡れるから。ちょっと貸して」
 美由紀は、父の手からコートを奪い、風呂の脱衣所に持って行った。足ふきマットの上、風呂場の入り口の桟にハンガーを掛け、コートを吊した。
 父は、バッグから金色の包み紙を取り出した。途中でノンアルコールのシャンパンを買ってきたという。
 キャンドルが点り、食卓は一気にクリスマスっぽくなってきた。
 父が二階のベッドルームで着替えて、ダイニングに降りてきたときには、すっかり夕食の支度がすんでいた。美由紀がシャンパンの栓を抜く。天井にとばすようなことはしないで、そっと抜く。父のグラスに、母のグラスに、そして自分のグラスに注ぐ。
「クリスマス、おめでとう」と父。
「かんぱーい」と美由紀。
 父も母も酔わないシャンペンに酔って楽しそうなのが、美由紀には嬉しかった。華やかな食事が終わり、ピノンのケーキが切り分けられた。
「ねえ、お父さんのピアノで歌わない?」
 美由紀は少し小さめに切ってもらったケーキをフォークでつつきながらが提案した。
「小学生の頃はよく歌ったじゃない。お父さん、ピアノの腕、鈍ってないわよねえ ……… 怪しいなあ。それにお母さんの、私とよく似たメゾソプラノ ……… 逆か。でも、お母さんの声、すてきだから、聞きたい」
「でももう九時よ。遅くない?」
 紅茶がわりのカモミールティを口にしていた母が心配顔で言った。
「大丈夫。今日はイブ。それにまた雨足が強くなったから、聞こえないよ。……… お父さん、いいでしょ?」
 父は、美由紀の上機嫌に少し面食らっているようだった。口元は笑ったらいいのかどうかと躊躇っていたが、目が頷いた。
「やりー。お父さんのピアノ、久しぶりだ」
 父は、ピアノの椅子に腰を下ろし、蓋をあけた。
「きよしこの夜の一曲だけだよ」
 母が父の右側に立ち、美由紀は左側に立った。母の右手がピアノの端に軽く添えられた。美由紀は、右手を父の左肩の上にそっとのせた。小学生の頃は届かなかった父の肩が、今は軽々と手の届く高さとなっていた。美由紀は、掌のなかで父の肩の筋肉が少し固まるのを感じた。美由紀の動作が意外だったようだ。父は、唾を飲み込んだのかもしれなかった。少し間を置いて、鍵盤に手を広げた。両手の小指と薬指がぶるっと震えた。美由紀は、父の体が美由紀の手を拒否しているようにも感じられたが、手を置いたままにしておいた。そして、父が弾き始めるのを待った。父の指が鍵盤まで降り、イントロを奏で始めると、父の肩の筋肉は曲の流れにのまれるかのようにゆったりとうねり始めた。母がフルートの響きに似た低い声で歌い始める。父のピアノのやさしさと呼応するかのように絡み合い、またほどけるように、歌が流れる。美由紀は、そこに加わるのをためらったまま聞いていたが、もう一番が終わろうとしていて、母が目配せで美由紀を促した。父のピアノもそれを察して、アドリブの短い間奏をはさみ歌い出しに戻ってきた。美由紀は、母の声に和して低音部を歌い出した。母の声はそれに力を得たかのようにますます伸びやかに羽を広げた。美由紀も負けじともう一方の羽を広げた。父のピアノがそれを支えるように高まり、やがて羽をたたむように静まった。父の手は鍵盤を離れず、止まっていた。指を小刻みに震わせながら。しばらくして、母の手が父の指の震えを覆うように延びて「ありがとう。すてきなピアノだった」と言った。

 秋江は、駅の改札口に先に来ていた。白いふわふわのセーターに薄紫のスカート、ベージュのガウンを着て待っていた。美由紀は、ダウンコートにジーパンだったので、なんだかおかしかった。デートみたいだなと思った。
 駅のすぐ横の公園への坂道を上りながら、横を並んで歩いている秋江に言った。
「傘を持って来なかったの?」
 秋江は、ポシェットを肩に掛けているだけで、傘らしきものを持っていない。美由紀は、左手に透明な長傘を握っていた。
「携帯用のポンチョが入っているから」と秋江がポシェットを押さえた。「ね、ランド、楽しかったね ……… いっぱいおごってもらって、悪くって。今度、私が出すからね」
「いいよ。……… それより、父が、アッキーに会ったって言ってたけど」
 秋江は、大げさに目を見開いて、美由紀を見た。
「えっ、ユッコのお父さんがそんなこと言ったの。……… 驚きだなあ。ユッコの家は、何でも言うのね」
「まあね」
「私がユッコのお父さんにチカンされたというのも言った?」
 秋江は、念を押すように言いながら、それを確かめたのだ。美由紀の表情を上目遣いで探っている。ずるそうな笑いが一閃横切った。
「まあね。……… 」
 秋江は、乾いた笑い声をたてて「おかしい」と言って、なおも苦しそうに笑った。
 美由紀は、嘲笑されたように感じた。急に秋江の老成した一面を見たような気がした。
「ユッコのお父さんが、私に『誤解だ』って言うんで、私のほうがびっくりしちゃった。……… そういえば」秋江は、そう言われた時のことを眼前に再現するように、目を瞬かせた。
 美由紀は秋江の顔をそうつぶさに観察したことがなかった。あまりに身近な存在で、気にしたことがなかった。幼なじみなので、当然知っていると思っていた。でも、改めて見直すと、秋江の表情が成長にともなって変化していることに気づかされた。睫がこんなに密に生えていたのかと記憶を遡ってみたが、思い出せなかった。長い睫ではないが、秋江の二重瞼をくっきり印象づける。高くはない鼻峰だが、ゆるやかな高まりの眉間は艶やかな白い肌をしている。頬骨は高くなく、頬の肉も薄く寂しそうな顔立ち。ただ、鼻の先の形は薄く優雅に高まっていて、小鼻が羽をたたんだように収まっている。唇は血の色が薄いのだが、顎から口の周りの少し青みのさした肌の白さに比較すれば慎ましやかな紅を感じさせる。
「そんなに驚いた?」
 美由紀は、瞬いている秋江の目をのぞき込んだ。
「だって、ふつう言えないよ。そんなこと」
 濃い睫の目が細くなった。が、その細くなった目の隙から油断のならない光がさすようだった。
 二人は、西洋の神殿を模した造りの記念館の前に来た。すると、秋江が石柱の並ぶ正面玄関に続く石段を途中まで駆け上がり、美由紀の方を振り返り、胸を反らせて見せた。
「どう?宝塚の舞台の大階段みたいでしょ」そして、手招きをする。「ユッコも来て」
 美由紀は、傘をステッキ代わりに大げさに突きなら、大股で秋江に近づくように上っていった。そして、横に並び、秋江を抱き寄せる男役の振りをした。
 秋江はとたんに笑い出し、階段を駆け下りた。おなかを抱えて、美由紀を振り仰いだ。
「くすぐったいじゃないの」
 美由紀も笑いながら階段をおり、また並んで歩き出した。
「そうそう、うちのお父さん、アッキーに秘密の布を見せたんだって?私には見せてくれないのよ。それっておかしいと思わない?」
「あれね。ふん、ふん、怪しいわね」
 秋江は秘密めかしてほくそ笑んでいる。
「私の勘では、あれはコレクションよ。チカンした女の人の衣服の一部を切り取って、それを細工しているのね。それって、自分の娘には見せられないわね」
「なーるほど。じゃあ、何、うちの父の痴漢説は確定?」
 秋江は歩みを止めないで、横から首を伸ばして、美由紀の顔をのぞき込んだ。黒目を左右に走らせて、美由紀の表情から心の動きを盗もうとするかのように。その目が、美由紀に近づく。小さな下唇が開いて、健康そうな皓歯がひらめいた。
 美由紀は、自分の鼓動が高まるのを感じた。さっき、秋江の腰を抱き寄せた時の生々しい記憶が左の掌によみがえってきた。美由紀は頬が燃えるのを感じた。それは苦しみに似ていた。
 秋江は、はじけたように前方に走って、振り返る。
「ユッコの赤くなった顔、かわいい」
 美由紀は、わざと顔を横に向け、頬を膨らませた。
「でもね。本当は、知らないの。だって、私のスカート生地があった訳じゃないし。……… 私のがあったら、確定だけど。……… それこそ見せる訳ないじゃん?」
「でも、どんな細工なの?」
「猫があったな」
「そこは、お父さんっぽい、かな」
「あっ、そうだ。うちの兄が見つけたサイトなんだけど」
 秋江がポシェットから携帯をとりだし、ネットから何かを探そうとしている。「ええとね。……… シェーレ、01だっけ。……… これだ」
 秋江が差し出した画面には、いろんな端切れ細工がアップされていて、中でも猫の作品が多い。クララっぽい猫もいる。
「これ、うちの父のサイト?」
「そこは、わからないけど、この人、神、なんだって。作品の感じが似ているのよ」
「へー。……… ここにアッキーの生地、ある?」
「ちょっと待って」
 秋江は、画面に目を寄せて一心に探している。人差し指を立てて、次々スライドさせていく。
「やっぱ、わかんない。……… 証拠がない。残念」
「こらっ、残念はないでしょう」
 秋江が小さな舌を出した。
 美由紀は、その舌でクララを思い出した。『アッキーはクララに似ている』……… そんな自分の思いつきに驚く。父の指の下で服従していたクララの姿が目の前の秋江の姿に重なった。秋江が、美由紀の目を覗いている。
「なに?」
「………」
「なに?なに?」
「……… いやあ、何でもない」
「いま、変なこと考えたでしょ」
 美由紀は、頭をかいてうつむいた。秋江の勘の鋭さにあきれた。美由紀は、秋江が自分のことをそんなに注意深く見ていたことに驚き、胸が熱くなった。父はたぶん……… 秋江のこの目に恋したのじゃないだろうか。
 美由紀は、駆けだした。
「こら、待て」と秋江が叫んで、後を追ってくる。「なに考えてんだよー」
 美由紀は、秋江がかわいいなと思った。今まで気づかなかった感情だった。
 美由紀は急に足を止めた。秋江が、息を切らしながら美由紀の左腕を取った。ランドでは嫌だなと思った秋江の指。その指に、美由紀の右手が軽く振れた。
「ねえ、うちに来ない?」
 美由紀は、ピノンのケーキがまだ冷蔵庫に残っていたのを思い出したのだ。でも、言った先から、三日も経っていて、秋江に出すのは可愛そうかなあと思い直した。
「ピノンでケーキ買ってさ、一緒に食べない?」



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