第5話   クリスマスイブ  黒崎つぐみ

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 昨夜、美由紀は泣きじゃくりながら邦夫に抗議した。その直情に刺激されたのか、気が付くと順子は夫の背中に殴りかかっていた。「お父さん、チカン?」とキツイ目で美由紀が詰め寄ってからもうすぐ2か月になろうとしている。あの日から順子は握った拳を懐へしまい、平穏な日常に戻ろうと努めていた。美由紀の受験が終わるまでは、と拳を固く握ったまま月日が過ぎていた。順子は2か月前のあの日から邦夫と交わす会話が減っている。口を開くと夫を責めてしまいそうになる。恨み言は言うまいと決めていたが、昨夜は堰を切ったように拳に力を込めていた。行動に出てしまっても邦夫の態度は変わらない。美由紀が泣きじゃくって自室に閉じこもった後、邦夫も寝室へ上がってしまった。体をぶつけた分だけ、以前より他人になってしまった。
 そんな時、手を動かしていると少しは気が紛れた。テーブルに広げていたパッチワークの布をお菓子の缶に戻しながらぼんやりと眺める。
美由紀がまだ小さいころ、「お母さん、バッグ作って!」「わたしだけのお弁当箱入れ作って」「アッキーとおそろいの、うわばき入れがいい!」
 順子は言われるままにパッチワークでいろいろなものを作った。それはまるで空いた時間を埋めるジグソーパズルのように、順子の隙間も埋めてくれた。美由紀が小学校を卒業して、しばらくはその趣味も押入れの中にしまい込んでいたが、この冬、また手芸道具を引きずり出したのだった。美由紀は2階で受験勉強をしている。夫は最近帰りが遅い。夫の帰りを待つ間、以前はこんなに胸がざわざわしなかったはずなのに、何かをしていないと不安になる。
いつもより時間をかけて料理を作る。きょうはクリスマスイブだ。牛のすね肉を900グラム、午前中から煮込もうと仕込みにかかった。きょうは午後から雨の予報だ。美由紀は2階から下りて来ない。せめて好きなビーフシチューを作ってあげようと材料を調理台の天板の上に並べる。肉を切り塩、コショウを振って小麦粉をまぶす。フライパンを火にかける。2個分の薄切りの玉ねぎをバターで炒め、牛肉を投入、肉に焼き色が付くまで炒める。ワインを振り入れ、トマトピューレを入れ、水気を飛ばす。別の深鍋に1リットルの湯を沸かし、ブイヨンを1つ入れる。鍋の中にフライパンの具材を入れ、あとは3時間、アクを掬いながらコトコト煮込む。2時間ほど煮込んだところにさらに玉葱と人参を投入する。このころ、部屋中にシチューの匂いが充満していた。少し気持ちが落ち着いてきた。
「お母さん、きょうはシチュー?」
 遅いお昼ごはんを食べようと2階から降りてきた美由紀が言う。昨日泣き腫らした目がきょうはいつもの涼し気な目に戻っていた。スエットの上下を着ていても肢体が伸びやかで、スポーツジムの宣伝ポスターのようだ、と見惚れた。後ろ手に組んだ腕の中にすっぽりとヒップが収まっている。ソファに体を投げ出すと両足を抱え込むように座る。膝の上に顎を載せると体は折りたたんだように小さくなる。順子にはそれが頼りなげに写った。
「朝から何も食べてないんじゃない?」
「うん、あまりお腹空いてなかったけど、この匂い嗅いだら空いて来ちゃった」
「まだシチューは煮込みが足りないわよ。そうね、あと1時間半かな?」
「きのうのおやき、まだある?」
「あるわよ。温めてあげる」
 熱い番茶を煎れ、おやきをゆっくり食べる美由紀の前に座り、順子も熱いお茶を啜った。
「ねえ、お母さんは平気なの?」
「お父さんのこと?」
「アッキーが痴漢されたって……」
「でもアッキーとお父さん、日吉に居たところ見たんでしょ?」
「そうだけど、あんなに怒らなくてもいいのにね」
「そうね。お父さんのあんな顔初めてだった」
「お母さんのパンチも初めて見た」
 昨夜のことを思い出すだけで美由紀は胸が詰まる思いがする。それは順子も一緒だった。
「でもね、美由紀。もし本当に痴漢されたのならアッキーはお父さんと一緒に行動しないんじゃない?」
「そうだよね。私の考えすぎかな」
 順子の美由紀に発した言葉は、自分に言い聞かせる言葉でもあった。

 「夕飯までもうひと頑張りしてくる」
 と美由紀が2階へ上がってしまうと、また不安が押し寄せてくる。パッチワークの缶を開け、布を弄んだ。気が乗ると配色を考えるのが楽しく作業も捗るが、結局一針も縫えなかった。考えないようにしても気が付くと邦夫のことを考えている。カラオケボックスで秋江を見つめる邦夫、電車の中で秋江に近づく邦夫、激怒する邦夫、それらは順子にとって知らない邦夫だった。外を見ると冷たい雨が降り出していた。
たっぷり3時間煮込んだシチューにじゃがいもを入れさらに1時間ほど煮込む。一旦火を止めて人肌ほどに冷めるのを待つ。冷めたところでもう一度火にかけると旨味がギュッと野菜の中に入り、味がまとまって来る。そこで塩胡椒し味を調える。「夫婦も煮物も一度冷めてから再加熱をしたときに旨味が入るのだ。今は一度冷めるのを待とう」順子はそう思った。冬の日は早く暮れる。薄暗くなった庭に冷たい雨が打ち付けられていた。美由紀は勉強に集中しているのか5時を過ぎても下りて来ない。

今年のクリスマスはツリーも出さなかった。せめてキャンドルでも灯そうかと納戸の中を探していた時だった。居間で電話が鳴っている。時計に目をやると6時を少し過ぎていた。
「はい、お待たせしました」
「木田さんのお宅ですか?こちらはピノンですが……」
 駅向こうの洋菓子店ピノンからだった。
「ご予約のケーキ、出来ておりますが、いつごろ取りにいらっしゃいますか?」
「アッ!」
 順子はそこで初めて10月に予約しておいたクリスマスケーキのことを思い出した。
「すみません。すぐ伺います。15分ほどかかるかも知れません」
「お急ぎにならなくてもいいんですよ。きょうはいつもより遅くまでお店を開けていますから」
 すっかり忘れていた。
去年は予約するのを忘れ、ピノンのケーキが食べられなかった。今年は早々と予約し代金も支払っておいたのだった。形ばかりのクリスマス。結局スタイルを気にする美由紀とお付き合いで食べる邦夫の食べる量は知れている。クリスマスが終わる26日まで冷蔵庫に残っている。順子が一人でぼそぼそと食べることになるのだが、それでも「ケーキだったらピノンがいい」という美由紀の意見で、誕生日とクリスマスはピノンと決めていたのだった。
「ちょっとケーキ取りに行ってくる」
と、2階の美由紀に声をかけ、急いで身支度をすると、携帯電話だけ持って家を出た。辺りはすっかり暗くなっている。80m先の大通りを行く車のライトが雨のカーテンを通して見える。雨脚はさらに強く、傘をさしても足元が濡れた。大通りまでは上り坂だ。すでに土砂降りになっている雨が川のように順子に向かって流れてくる。大通りに到達するまでにスニーカーがずぶ濡れになりソックスを通して冷たい感触がジーンズの方へ上がって来る。
 大通りまで出るとあとは駅まで一本道だ。右に曲がると歩道をただひたすら、うつ向いて歩いた。ところどころにできた水たまりを、車のタイヤが容赦なく水を跳ね上げて通っていく。帰宅を急ぐ人たちとすれ違う。ぶつかりそうになりながら、傘で風を避け、いつもより時間をかけて歩いた。気持ちだけが急いていた。駅近くになり人が多くなってきた。前から来る人を避けようと商店街のドアの方へ身を寄せた時、いきなり自動ドアが開き賑やかな音が順子に襲い掛かって来た。パチンコ店の明るい光、ふと目をやると、入り口近くの台に座っていたのは紛れもなく邦夫だ。邦夫は気づかない。
「どうしてここに居るの?」「たばこの煙は大嫌いなんでしょう?」「きょうはクリスマスよ」沢山の言葉を伝えようとすれば、携帯は持っている。かけようと思えばできるのだった。この騒音の中で邦夫は携帯の着信に気が付くだろうか。店に入って後ろから「ワッ!」と驚かそうか。ポケットの中で携帯を握りしめた。指に昨日の拳の痛みがよみがえった。
順子はそのまま駅を越えてピノンへ歩き出した。
「あっ、予約表……」
「結構ですよ。お代はいただいてます。いつもありがとうございます」
 店員の笑顔に会釈を返すと、商店街を足早に通過した。帰りはパチンコ店と車道を挟んで向かい側の歩道を歩いた。自動ドアが開くことはなかった。
「夫は傘を持っていただろうか?」
 そう思いながら、家路を急いだ。

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