第4話 冬の蝶    芦野信司 (挿絵も)   

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 土曜日の図書館の学習コーナーは静かで、紙をめくる音、書きものをする音、そしてときおり椅子の位置を変えるきしみ音がするだけだ。十二月の慌ただしさはここにはない。ゆっくりと時間が過ぎていく。ただ、ここに集まっている学生の内面はそうではないはずだと美由紀は感じていた。年が開ければ、受験シーズンとなる。一人一人がそこから人生のコースを変えていくのだから。美由紀の心も落ち着かない。まだ迷っている。

 美由紀の第一志望は、音楽科のあるA高校だ。中学二年の三者面談ではじめての進路指導があった。「宝塚音楽学校に行きたい」答えると担任の先生と母は顔を見合わせた。母にも言ったことのない美由紀の気持ちだった。「木田、おまえ本気か?」と聞く担任。美由紀は頬が燃えるのを感じた。しかし、他に行きたい学校がある訳でもないので「そうです」と答えると、今度は腕を組んで困っていた。数日後、音楽の先生から呼び出された。担任から相談されたのだという。そこで「県下にはこういう高校もある」と薦められたのがA高校だった。「宝塚に一発合格することはまず無いから、ここで勉強しながらチャレンジしてもいいんじゃないかな。十八歳まで受験できる。厳しいぞ」音楽の先生は楽しそうに言ったのだった。
 それ以来、音楽の先生は親身に指導するようになった。美由紀は所属するクラブを陸上部からコーラス部へ変更し、毎日発声の朝練に通った。音楽科の受験のためには、実技以外にも身につけなければならない科目があり、先生は日吉にある自分の知り合いのスクールを紹介してくれた。
 秋江との付き合いが細ったのもこの頃からだ。受験勉強だからと言い訳にするのは簡単だが、秋江に縁のないことを見せびらかすようで嫌だった。

 美由紀が学習コーナーに持ってくる参考書は、そのスクールの音楽理論の本。表紙の「楽典」の文字が擦れて汚れるほど繰り返し読んでいる。面白い本ではない。美由紀が好きなのは聴音だ。音を聴いて、それを五線譜に書き取る科目。楽典で疲れた脳味噌を音が癒してくれるから。
 美由紀は布バッグからノートを取りだし机に広げた。二段の五線譜に縦線を入れ、八小節を作る。イヤホンを耳に差し込み、スマホのアプリを起動させると音が鳴り出す。右手に鉛筆。左手は太腿に置く。イヤホンから流れ出す音を聞き、仮想のピアノを左手で弾く。左手の指の動きを見て、その音の高さとリズムを書き留める。同じ曲を四度ほど聴いて譜を完成させるのだ。ピアノの鍵盤の高さのイメージなら机の上に左手を置きたいところだが、隣で勉強している人のじゃまをしたくないので太腿を叩いていたのだ。そんなことを何回か繰り返しているうちに、美由紀は秋江の言った言葉を思い出していた。幼い頃、美由紀にピアノを教えてくれたのは、父だった。父の指だった。太腿を触る。美由紀は思わず自分の手を引いた。

 家の自転車置き場には母の自転車があった。美由紀は、その隣に自分の自転車を止めた。
「ただいま」
「はーい、おかえり」
 台所から母の声がする。父は今日も出勤している。先月、美由紀が父に痴漢したのかを問うて以来、家の雰囲気が微妙に変化したような気がする。美由紀はそう感じていた。父も母も美由紀も、毎日話している言葉に変化はないのだが、語尾に微かな冷ややかさがある。

 あのとき母が父を非難しなかったのは父の言葉を信じたからだろう。美由紀はそう思って、数日後に母に聞いたのだった。母には何も隠す必要がなかったから。
「アッキーは、なんであんな嘘を言ったんだろう。私には分からなくって」
 母は、ほほえみながら言った。
「きっとさみしいのね。アッキーは美由紀に構われたいのよ。心配されたいのよ。あの子は、昔からそういうところがあった。幼稚園の頃だったかなあ。自分の本当のお母さんはある有名女優だと触れ回るんで、アッキーのお母さん、それを打ち消すのに一生懸命だった。小学一年だったか二年だったか、お父さんの選挙カーにこっそり乗り込んで手を振っていたことがわかってね。相手側陣営から選挙違反じゃないのかいと指摘され、お父さん真っ青な顔で謝っていたもの。……… それに、あの家は代々女系じゃない。家を継いできたのはおばあちゃんだし、お母さんだし。旦那さんはお婿さんだものね。そこに待望の長男、お兄さんの真斗くんが産まれたんで、みんなそっちに夢中だったもんね。その上、真斗くんが優秀だからさあ ……… たぶん、さみしいのよ。美由紀も受験で大変かもしれないけど、たまには遊んであげたらいいんじゃない。気晴らしにもなるでしょう」
「真斗ねえ。あいつ嫌なやつだから」美由紀の脳裏に、秋江と美由紀がバレエを習っていた九歳頃のシーンが蘇った。バレエ教室の帰りに秋江の家で遊んでいた。春の暖かい日が広いリビングに差し込むので二人ともうとうとし、ちょっと眠ったらしかった。気づくと、真斗が絨毯に座り込んで向こう向きで何かしているのだ。ところが、美由紀が起きた気配に振り向き、あっと言う間に逃げていった。真斗がいた所には、秋江と美由紀とバレエのタイツがあり、鋏が落ちていた。タイツは切り裂かれ、小さな端切れが散乱していた。それが蝶の死骸のように見えたことを覚えている。……… 真斗の仕業と訴えても信じてもらえず、それを機に二人ともバレエを止めてしまった。

 美由紀は、ダイニングに入りキッチンで夕食を作っている母の背中に声をかけた。
「ねえ、お母さん。お父さんにこの間のこと謝った方がいいかなあ。……… 痴漢だなんて言っちゃって。ディズニーランドでアッキーに聞こうと思ったけど、アッキー、どうせ嘘つきだから聞いたって意味がないものね」
 母は、振り向かずに水道の蛇口を開きキャベツを洗い、外葉をむしりながら言った。
「……… 気にしてないからいいんじゃないの」
 母は軽く答える。
「でも、何か気まずい感じがして」
 美由紀としては、それは母にも言いたかったことだ。
 母は、むしり取った外葉を生ゴミ用のバケツに捨てた。そしてまな板を出した。
「……… 気にし過ぎじゃない」
 まな板にキャベツをのせて縦半分に庖丁を入れている。
「私、自分のことで夢中になって、お父さんやお母さんのことを考えていなかったと思って反省しているの。受験のことが心配で神経質になっていたんだと思う。なんだか、今頃になって、やっぱり今度、宝塚も受けるべきじゃないかと悩んでるし。……… 駄目なのは分かっているのにね。私と同じ中学三年生が来年受験するのよ。みんなどんなにがんばってきたんだろう。私、バレエなんか、ちょっともやってないし、うまい子はたくさんいるし、もしかしたら追いつけないかもしれない」
 母は黙ったまま、刃をリズミカルに動かし千切りにしている。
「私、結局自分ができないことが恥ずかしいから、落とされるのが恥ずかしいから来年受けようとしないんだって思うの。またお金がかかると思うし、お母さんにもお父さんにも悪いと思うんだけど、宝塚をやっぱり受けたいんだけど、いいかなあ」
 母は背を向けたまま笑っているようだった。まだキャベツを切りながら。
「……… いいもわるいもなく、美由紀が好きなようにやればいいのよ」
 美由紀は、母の背に向かって頭を下げた。ありがとうございますと言おうとしたが、言葉にならずに涙が落ちた。
 夕食のテーブルで、美由紀は父に謝った。秋江のことも悪く思わないでほしいと頼んだ。そして、宝塚受験のことも。父は頷いた。

 十二月二十三日は月曜日。クリスマス前で日吉駅西口は華やいでいる。美由紀が通っているスクールは駅から少し離れたビルにある。レッスンを終えて、美由紀が駅に向かう道は真っ直ぐなのだが、駅に近づくに連れ複雑な横道があり、そこから人が排出される。美由紀は酔っぱらいに絡まれないように少し遠回りして駅に向かった。
 その小路の十メートル先のカラオケ店からベージュのコートを着た背の高い男が現れた。美由紀は思わず、近くの暗い建物の陰に隠れた。次に出てきた人影を見たとき、美由紀は愕然となった。ブレザー姿の秋江だった。父と秋江は並んで駅に向かっている。何かしゃべっている。その笑顔は晴れやかで、まるで父の周りを飛ぶ蝶のようだ。
 美由紀は慌てて今来た道を引き返した。どこに行くあてがあるわけでもなく道を歩き回った。今見た光景が現実のものと思えなかった。幹線道路にぶつかったので、その通り沿いに歩いた。歩くことが気休めだった。もっと暗いところに身を隠したいと思い横道にそれた。すると緩やかな登りになった。その先に小橋があり、川音した。橋までくると、足下の川筋が近くの住宅街や工場や倉庫を左右に分かち一本の暗い帯となって街を貫いている。その先にはきらめく灯が並んでいた。
 川の寒風が足元を抜けていく。冷静になると、日吉駅はあのあたりだなと思いながら、美由紀は自分の臆病さを罵った。自分は隠れる必要はなかった。事実から逃げる必要はなかった。ただ「偶然ね。どうしたの」と声をかければよかったのだ。もし、慌てる必要があるなら、それは父であり秋江の方だったのだと思い直した。
 美由紀は、日吉駅に向けて踵を返した。まだ遅くはない。帰って、父に聞けばいいことだと決心した。

 美由紀が玄関を開けたとたん、母が駆けてきた。
「遅かったわね。心配したのよ。メールも返って来ないし。どうかしたの」
「ごめん。なんでもない」
 美由紀は、母の横をすり抜けダイニングに入った。父はそこにはおらず、続きの間のリビングで寛いでいた。ソファーに腰を沈め、腕を組んで瞼を閉じていた。今はもっぱら美由紀が弾く、父のアップライトピアノもそこにあった。
 美由紀は、ピアノの椅子に浅くかけて父の顔を見下ろした。父は薄く目を開け「遅かったね」と言った。美由紀の顔がただ事ではないのを分かっているのにとぼけている。この間と同じだと美由紀は思った。
「さっきアッキーと何してたの? 日吉のカラオケ店から二人で出てくるのを見かけたけど。楽しそうにいちゃついていたけど」
「何だい。また誤解しているよ」
 父は大柄な体をソファーに横倒しにし、体の力が抜けたふりをした。
 父は、自分が時々自分だけの時間をつくるため、日吉のレンタルルームを使っていることを告白した。確かにこの家にはベッドルームの隅に父のライティングデスクがあるばかりで、父の書斎はなかった。父はそこでささやかな趣味を楽しんでいたらしい。秋江にそれを話したら、興味があるというので見せたのだという。
「そのささやかな趣味ってなんなのよ」
「つまらんものさ。端切れの工作だよ」
「見せて」
 父は美由紀を脅かすような、野太い声をはじめて上げ、立ち上がった。
「その言い草はなんだ。お前は何様だと思っているんだ。すねっかじりのくせに。自分の父親がそんなに憎いのか。ふざけるな」
 美由紀は肩に隠れるように首をすくめ、涙でぐしゃぐしゃになった目で父を睨んだ。
「何で怒鳴るの? 見せてって言ってるだけじゃないの。アッキーには見せられて、私には見せられないのね」
 その時だった。母が父の背中を拳で叩いたのだった。
 父が振り向いて、殴りかかる母の腕を捉えてもみ合いになった。
「何する。よせ」と父が叫ぶが、母は身をよじるようにして父の腕から離れようとする。それでも「こいつ、こいつ」と殴りかかろうとする母。
 そんなもみ合いが十五分ばかり続いたが、二人とも疲れてしまい、父はソファーに、母は床に腰を下ろして肩で息をしていた。
 美由紀は、二人の無言に耐えきれずにリビングを駆け出して、二階の自分のベッドに身を投げ出した。家族が家族で無くなるかもしれないという思いが脳裏をよぎった。

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