第3話 ターゲット かがわとわ

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「パパ、あのね」
 書斎のドアを半分開けると、秋江はひょいと顔を突っ込んだ。
「ノック! やり直し!」
 軽くため息をついたパパだったが、その目は笑っていた。秋江は一度ドアを閉めてから、右手を緩く握り、第二関節でコン、コン、コン、と軽く叩く。
「うむ。入りたまえ」
 わざとらしいつくり声が、中から響いた。
「はいっ、お土産!」
 秋江は、後ろ手に隠していた小箱をくるりと体の前に回して、肘掛け椅子に座ったパパに差し出した。ミッキーマウスがプリントされている。
「ディズニーランドか。ママと? パパも誘ってくれなくちゃ」
「違うよ~。友だちと。どっちにしても、パパ、いないことが多いくせに」
「つきあいが大変なんだよ。支援者との会合は、大抵週末だからな」
「東坂(とうさか)勝茂(かつしげ)、東坂勝茂をよろしくお願いします」
 秋江は、ウグイス嬢のマネをしてみせた。パパが箱の蓋を開ける。スイングするミッキーの絵が入ったゴルフボールセット。
「ね、可愛いでしょ。使ってね」
「せっかく秋江からもらったんだから、飾っておくよ。ありがとう」
「え~。こんなに可愛いんだから、みんなに見てもらわなくちゃ」
「──学校の友だちと行ったのか。まさかボーイフレンドじゃないだろうな」
 パパったら、もう。私にはボーイフレンドなんて。だって、私が好きなのは……。
「ユッコと二人で行ったの」
「ああ、あの子か。秋江は、時々あの子の話をするな」
「前みたいに、ちょくちょく会ってないけどね。ランドでミニーのお揃いのボールペン買っちゃった」
「小遣い、使い切っちゃったんじゃないのか。足りなくなったら、いつでもパパが出すと思うなよ」
「うん。大丈夫」

 ユッコが「お父さんのおごり」と誘ってくれたことは黙って、自室に戻った。パパは、秋江に甘いようで厳しい。パパの口癖は「結果を出すために、何をすればいいか考えなさい」だ。「パパはな、成り行きで県会議員になったんじゃないんだ。目標を決めたら、結果に結びつく行動をする。頭を使い、人脈をいかす。常に未来から現在やるべことを見るべし」そんなことを、ママや秋江の前で言う。ママは「秋江に帝王学みたいなこと、吹き込んでも……」と、引いているが、「これは、人生における大切なことだ。欲しいものがある、やりたいことがある、現実化するには、どうすればいいか。頭を使って、動くこと。性別や年齢は関係ない」と。
 ママは、秋江にこっそり囁く。
「いいのよ。パパは、自分に宣言したいだけなんだから。秋江にはいずれ、いいお見合い相手見つけてくれるわ」
 ママは代々続くこの家の一人娘で、パパが養子に入った。
 パパの事は好きだけれど、ユッコのことについて、一度むかつく発言をした。
「宝塚音楽学校を受験するのに、専門のレッスン予備校に通ってないのか? 希望は語るだけじゃ叶わないぞ。ただの夢見る少女のままだ。親にスポンサーになってもらえるかどうかだな。ご両親は知っているのか」
 まず高校受験があるから、まだ先の話と反論し、「バレエとか声楽の試験点が良くなくても、何かキラッと輝くものを持っていれば合格する人がいるんだよ。ユッコ、割と整った顔だし、モデル体型だもの」と口を尖らせると、
「いいか、美形でスタイルがいい子なんて、大勢いる。その子たちが、受験に向けたレッスンを小さな時から受けて挑んで来るんだ。甘いな、美由紀ちゃんは」
 と、あきれた顔をしたのだ。もともとユッコが宝塚にのめり込むきっかけは、パパとママが、ユッコも一緒に宝塚の公演に連れて行ってくれたからじゃないの。ユッコは、やりたいことがはっきりしているのに、秋江は特にない。最初はユッコに合わせて、スターに夢中になろうとしたけれど、飽きちゃった。ユッコと同じものを好きになろうとしただけ。天乃くれないのブロマイド、喜んでくれて良かった。ほんとはもっと会いたいのに、ユッコはそんなでもない感じ。でも、これからは……。
 姿見の前に斜め立ちして、ニヒルに腕を組んでみる。──男役には、ほど遠い。右手の人差し指を軽く顎先に添え、首をかしげて、微笑む。──こっちのほうが、違和感がない。秋江は、可愛いと言われることがあっても、綺麗と言われたことはない。「萌え系」と言われたことは、何回かある。そのポーズのまま、隣に男役を演じるユッコを想像立ちさせてみる。 
「あ~あ。でもさぁ、ユッコは男役の扮装していない、今のユッコがいいなあ」
 ひとりごちた声は、壁紙のアラベスク模様に絡め取られて消えた。ユッコは、宝塚に憧れてから、髪をショートカットにした。すらりとした背丈と長い手足によく似合った。おでこを見せて無造作に分けた前髪が、かっこ良かった。時々前髪をかきあげる時の、生え際から直線気味の眉毛までの端正さ。ユッコのおでこのカーブは気高い。秋江は、肩上までのボブカットだ。眉毛のすぐ下で切りそろえた前髪は、それ以上短くしたことがない。そっと前髪を上げて、鏡に顔を近づける。なんか、まぬけ。ちっちゃなニキビを発見して、ため息をつく。

 そう。ユッコのお父さんを発見したのは、十月の中旬だった。大倉山駅で。登校する時に。会ったのは何年も前だけど、そんなに変わってないからすぐにわかった。ユッコにそっくりな、切れ長の目。形は似ているけれど、ユッコの涼やかな感じより、ちょっと鋭利な光がある。背が高くて、かっこいいおじさんがいるなと思って、あっ! となった。渋谷方面行きの同じホーム。おじさんは、秋江よりふたつ向こうの乗車位置に並んだ。いつもあそこから乗るのかな。同じ時間なのかな。そうだよね。スーツだし。どうして今まで気づかなかったんだろう。そうか、いつもスマホをいじって乗車待ちしてたからだ。……でも……こんなに長い間気づかなかったのも……まあ、いいや。顔を上げて周りを見ると、いいことあるな──いいこと? 近づいて挨拶しようか……ご無沙汰しています。美由紀さんの友だちで、小学校の時に……でも、わかんないよね……。
 それからしばらく、秋江はユッコのお父さんを、確認する朝が続いた。二つ向こうの列から飛び出している頭。秋江は自由が丘で降りる。おじさんが自由が丘で下車していないことは、確かだ。いたら、もうわかる。どこで降りているのだろう。同じ車両の、おじさんが見える場所に乗ればわかるけれど。
──欲しいものがある、やりたいことがある、現実化するには、どうすればいいか。頭を使って、動くこと──
 パパの言葉が、頭をよぎった。私の欲しいものは……。ユッコと、前みたいに、それ以上に仲良くなりたい。そのためには?

秋江は、次の朝、いつもの列より、二列向こうに並んだ。視線の先に飛び出たユッコのお父さんの後頭部が見える。アナウンスが流れ、銀色の車体が重い振動と共に滑り込んで来た。押される圧に乗って、おじさんから少し離れた位置までなんとか到達し、人の隙間から横顔を見上げていた。やっぱりユッコと似ている。ラッシュで混み合っているので、皆、真向かう体勢にならぬよう、それぞれが体の向きをうまく調節している。次の綱島駅で降車客が移動する動きにねじ込み、秋江はおじさんのすぐ前までたどりついた。体をうまく回転させて、おじさんに対して背中を向ける。ここなら、おじさんが下車する時にわかる。頭の上から、「はあぁ」という息とともに、たばこと魚が混じったような匂いが降りて来た。体を少しねじって見上げると、秋江の斜め後方にぴったりついた中年男性が、黄色かがった舌をのぞかせてあくびをしていた。慌てて前を向く。しばらくして、後ろからコートの裾が持ち上げられるような感触があり、続いて制服のスカートが引っ張られた。え? 何? ふいに硬質で冷たいものが、ハイソックス上の腿裏を掠った。間を置かずに、生温かい指が侵入してきた。腿の裏を撫であげるようにさまよい、一度軽くつかんで離すと、そろそろと上にあがってくる。やめて……やめてください──意思に反して声が出ない。喉が詰まったような息苦しさ。怖くて体が動かない。ユッコのおじさん、助けて。助けて! おじさんと背中向きに立ったことを後悔した。おじさんに、秋江の顔が見えたなら、目で訴えられるのに。助けてもらえるのに。
「まもなく日吉、日吉です。目黒線、横浜市営地下鉄ご利用のお客様は乗り換えです」
 車内アナウンスと共に、指が体から離れた。とたんに足がガクガクする。ホームに電車が入り、人の塊がたゆむ。と、ユッコのおじさんが低い声で「すみません」と言いながら、秋江の前を抜けてドアに向かった。チカンはそのまま電車に残るようだ。
 おじさんを追って降りた。まだ足がガクガクしている。足がもつれてホームの真ん中で派手に転んだ。「ちっ」と舌打ちする音が聞こえ、迷惑そうにスーツの男性がよけて行った。咄嗟に前に出した掌が擦れて、少し血が滲んでいた。
「大丈夫かい」
 静かな低音に顔を上げると、ユッコのおじさんが秋江を見下ろしていた。

 おじさんは、秋江が落ち着くまでベンチの横に座ってくれた。秋江の顔をのぞき込んで気遣ってくれるのだが、娘の友だちで、昔会ったことのある少女だとまったく気づいていないようだった。最初の予定では、おじさんの降りる駅を確かめて、ユッコに会う時、驚かせようと思っていた。──えっ、なんで知ってるの? って不思議そうなユッコに、やっぱりお父さんなんだ。実はね──って。そしたらユッコから、おじさんの耳にも入る。次は駅で自己紹介して、自然に挨拶する関係になって、おじさんがいい子じゃないかと気に入ってくれて、「いつでも遊びにおいで」と。
──言えなかった。私、さっきの電車に乗っていたんです。チカンにあったんです。斜め後ろに、息が臭いおやじがいたんです。きっと、あの人です──言えなかった。ユッコの友だちであることも。名前も。恥ずかしさと哀しさと怒りがこみあげてきて、うつむいたまま、「ちょっと、貧血気味で」と、嘘をついた。
「学校は、近く? 駅員さんに来てもらう?」
「いえ、そんな。あの、ただの貧血なんで。──もう、大丈夫です」
 秋江があわてて答えると、おじさんは何か納得したような顔をして、
「それなら、ほんとうに平気なんだね?」
「──はい」
 秋江は無理して笑ってみせた。そっと深呼吸をしてみる。──息がちゃんと吸えた。ちゃんと吸えたのに、視界がぼやけてきたので、こっそり目尻を拭った。
「ありがとうごさいました。会社、遅刻しちゃいますか」
「いいんだよ。気にしないで」
 おじさんが立ち上がった時、鞄からはみ出ていた書類袋が落ちて、中に入っていた厚みのある絵のようなものが顔を出した。
「おっとっと。無理矢理入れて来るんじゃなかったな」 
 おじさんは、大切そうにそれを封筒に入れ直した。
「──絵描きさん、ですか」
「違うよ。ただのサラリーマン。これは、趣味。家で広げているとね、集中して出来ないから、会社の帰りに、レンタルススペース使って──カラオケルームだけどね……制作している」
 秋江がじっと見ていると、
「見たい?」
 頷くと、
「じゃあ、特別」
 長四角の色紙のようなものを引っ張り出した。
「わあ!」
 絵だと思ったそれは、布の端切れの集まりだった。単色の、模様の、厚手の、薄手の、色とりどりの小片が貼りつけられ、重ねられて形を成している。二匹の猫が、くっつき合っているものだった。手前の猫は横向きに寝そべり、首を斜めに傾けて目を細めている。体が半分隠れた後ろの猫は、前の猫に被さるように手前の猫の傾いた首横に頭を差し入れ、耳の付け根を舐めていた。こちらの猫は、しっかりと目を開けている。
「すごぉ~い! ちぎり絵的な感じですね」
 確かにすごいと思ったが、じっと見ているうちに、なんだか薄気味悪くなってきた。
「これはベンガルの創りかけだけれど、ほかにもチンチラの完成品がある」
「それ、猫ちゃんの名前ですか」
「種類。猫の次は、馬もやってみたいんだ。尻尾は人毛にしてね。女性の」
「──はあ。どうやってつくるんですか」
「どうやってって──鋏で切って。布ボンドで貼って。鋏はね、刃先が薄くてシャープなものが繊細な作業に合っているんだよ。君、こういうものに興味あるの」
「はい。美術部なので」
 ──また、嘘をついた。
「布鋏は、裁ち鋏とピンキング鋏とソーイングセットの鋏しか知りません」
「はは。それだけ知っていれば上等だ。ソーイングセットの鋏、あれはダメだ。小さくて便利かと思ったが、男の手には、あの持ち手が小さすぎるし、やはり性能が良くなかった」
 おじさんは、作品を袋にしまう前に、そっと上から手を這わせて、満足そうに微笑んだ。
「布たちは、おじさんが集めた宝物なんだよ。すべてに個性があって息づいているんだ」
出来上がったら、専用のケースにしまうのだという。布を撫でるおじさんの指は、男の人なのに長くて節がなくて綺麗だなと思ったれど──なぜだろう。いやな感じがした。

 おじさんが見えなくなるのを確認してから、電車に乗り直し、遅刻してそのまま保健室へ直行した。教室に行く気になれなかった。
「具合が途中で悪くなって……寝かせてください」
 養護教諭の先生に言って、コートを脱いだ直後、後ろから高い声があがった。
「どうしたの! 東坂さん、スカートが、切れてるじゃない!」
 スカートを前に回してみると、裾の一部が切り取られて大きく穴が空いていた。 






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