第2話     猫     黒崎つぐみ

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夕食前、娘の美由紀が「入って来ないでよ!」と言い放った時から母順子の頭には霞がかかっている。そのあと美由紀がどのくらいご飯を食べ残したのか、お風呂に入って髪を洗ったはずなのにどうして髪が濡れていないのか、食器をどんなふうに洗って片付けたのか、暖房をいつ消したのか。「入って来ないで」と言ったあとの娘の言葉を思い出そうとしても、それを拒否するかのようにすべての記憶がぼおっと霞の向こうに現れては消えた。
こんな時でも寝る前のルーティーンを体が刻んでいる。戸締りを確かめ、明日の朝のための米を研ぐ。ベッドサイドのドレッサーに向かうと、夫の邦夫はこちらに背中を向け、もう寝息を立てていた。ナイトクリームを頬に塗り全体に広げていく。「チカン」その言葉も順子の顔にナイトクリームと一緒に広がっていく。
ドレッサーの上には猫のクララの写真が飾ってある。まだ美由紀が生まれる前、夫が買ってきた猫だ。
「一人で家にいるのは寂しいだろう」
猫好きだった順子にとって、真っ白なチンチラの子猫は嬉しいクリスマスプレゼントだった。順子も可愛がったが、1年前16歳で死ぬまでクララは夫の膝の上を自分の場所と決めていたようだ。邦夫は長い指でクララを撫でて眠らせる。
「この仔の目、君の瞳に似ている」
夫は17年前、街角のペットショップで偶然目が合ったのだと言って高価な猫を衝動買いした。仕事から帰ると一日あったとことをクララに話して聞かせていた。喉を撫でながら、ゆっくり指は頭へと移動する。眉間を撫で、背骨を数え、ろっ骨をまさぐり、腰に這わせる指はそのまま順子に繋がっていく。順子が身ごもり美由紀が生まれても、邦夫の指は美由紀には向かない。赤ん坊は怖いのだという。美由紀は顔つき、手足がほっそりと長いところや、身長が高いところ、指の形も父親に似ていた。順子に似ているところと言えば声くらいだった。美由紀が生まれたばかりで手がかかるときや、なかなか寝付かないとき、邦夫はクララを撫でながら順子を待っていた。 クララが居なくなると邦夫の指は順子にも向かなくなった。順子はクララと邦夫の指を同時に失った。美由紀が中学3年になる春。桜の綺麗な季節だった。
クララが死んで数か月経ったころ、順子はタンスにしまわれていた自分の下着が2センチほど切られていることに気づいた。それは手に取って穿かなければ気づかない程度の切れ目だった。自然にほつれたものではなく、明らかに刃物で小さな切れ込みを入れた形跡がある。自分以外に寝室のタンスを開け閉めするのは夫くらいだ。
「これ、あなたなの?」と聞くことは憚られた。手に取り、両サイドに引っ張るとあっけなく引き裂けた。いつ切られたものなのかもわからない。(忘れよう)順子はそう思った。しかし、1週間ほど経って、邦夫の机の引き出しが少し開いているのに気が付き、近づいて閉めようとしたとき、携帯用のソーイングセットの小さなハサミが見つかった。順子のハンドバッグからいつの間にか消えたハサミ。
「これだ」
順子は確信した。
夫が一人で居間に居る時にテーブルの上に小さなハサミを置いた。
「こんなことをして面白いの?」
「何のこと?」
夫はこれまで見たこともない目をしている。
しかし、その目はすぐにいつもの優しい夫の目になった。
順子の背筋に冷たいものが走った。美由紀なら「新しい下着買うから、ねえ」と掌を夫に差し出し甘えるのかもしれない。「切り裂きジャック!」と茶化すことが出来るかもしれない。
順子にはそれが出来ない。自分の足元が揺らいでいるような気がした。不安を打ち消し、夫が何か他の物を切ろうとしてそのハサミを使ったのだと思うことにした。「シャツについていたクリーニング屋の番号が書いている紙。いつも肌に当たって気になっていた下着のタグ。パジャマのズボンの裾のほつれてきた糸。そんなものを切るときにたまたま私の下着が下にあったのだ」と思うことにした。
文具のハサミなら夫の引き出しにいつもある。
「どうして私の携帯用?」
そして残暑がやっと去った9月のある晴れた日、夫の通勤用のカバンから、またそのハサミが見つかった。

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