第1話 いやな指   芦野信司

IMG-1146.JPG
                             
 久しぶりに秋江から電話があった。
「ちょっと早いけどお誕生日のプレゼントを渡したいの」という。
 美由紀の誕生日は十二月三日。まだ一ヶ月以上先だ。美由紀は、次の土曜日の午後五時に、小学生の頃よく遊んだ児童公園で落ち合う約束をした。
 秋江と美由紀は幼稚園からの幼なじみだった。中学になって、美由紀は地元の公立中学校へ進んだが、秋江は自由が丘にある女子大の付属中学に入学した。違う中学になってからは次第に会うこともまれになって、三年生になった今では、互いに誕生日にプレゼントを渡すときに会うくらいだった。
 土曜日の午後、美由紀は自転車で図書館に行き、そこの学習コーナーで高校受験の勉強をするのが、このごろの習慣だった。コーナーの利用者は高校生と中学生がほとんどで、二十人ぐらいの人たちが黙々と机に向かっている。南側にある大きな窓からはブラインドを通して静かな秋の日が差し込んでいた。その日差しが西に傾き赤みを帯びてきたとき、美由紀は立ち上がって、参考書やノートを布のバッグにしまい込んだ。
 待ち合わせの公園は、最寄り駅の大倉山へ続く道を自転車で十分ほど行ったところだ。公園に着くと、美由紀は自転車のスタンドを立て、前カゴからバッグを取り出した。秋江はまだ来ていなかった。秋江は約束の時間に少し遅れて着いた。公園に入ってから小走りに近づいてきて、美由紀が待っていたベンチの横に座った。白いブラウスにチェック柄の短いタイを結び、胸にエンブレムのついたブレザーを着ている。どう見ても制服だ。タイと同じ柄のプリーツスカートがかわいらしい。ジーパンにシャツという普段着の美由紀には、秋江の少女っぽさが気恥ずかしかった。
「きょうは学校だったの?」
「文化祭だったの。早めに切り上げて帰って来ちゃったけどね。はい、これ、プレゼント。開けてみて」
 リボンを掛けた包みを開けると、宝塚のブロマイドだった。
「わっ、『シチリアの甘き香り』だ。それに『ロザリンド』、『スパニッシュ・ブルー・アイ』。全部、天乃くれない。ありがとう」
 天乃くれないは、美由紀の憧れのスター。中学一年生になったばかりの時、秋江と一緒に秋江の両親に連れられて日比谷の宝塚劇場で初めて舞台を見て以来、美由紀の脳裏から離れない存在になった。
 秋江もはじめは別のスターが好きだと言っていたが、それは美由紀の夢中になりように合わせていただけだったらしく、そのうち何も言わなくなった。
「ユッコはやりたいことがはっきりしていていいなあ」と秋江。
『ユッコ』とは美由紀のこと。幼稚園の頃からの愛称で、秋江は『アッキー』だった。
「とんでもない。もうすぐ高校受験。宝塚音楽学校は、はるかはるか先。アッキーこそ受験なんて面倒くさいものがなくてうらやましいよ」
「それ、どうかなあ。うちの生徒は受験がないから、のんびりしすぎているような気がするけど」
 秋江から「のんびりしすぎ」の言葉が出たのが、美由紀にはおかしかった。
 夕日が公園のけやきの向こうに沈もうとしていた。その光が俯いている秋江の横顔にかかる前髪を輝かせている。その秋江の唇が少しふるえた。
「何かあったの?」
 秋江はしばし黙っていたが、下唇を引き締めると、美由紀の方に向き直った。
「あのね。変なことを聞くようだけど、ユッコのお父さんてどんな人?」
「どんな人? 前に会ったことあるよねえ。アッキーがうちに遊びに来たとき。でもずいぶん前か。小学校の時だものね」
 美由紀は、じっとこちらを見つめている秋江に笑いかけた。「アッキーのお父さんみたいに県会議員の選挙のたびにポスターに出る訳じゃないから。………どう言ったらいいのかな。………ただのサラリーマンね」
「もしかしたら、この人じゃない?」そう言って、秋江は、バッグから取り出したスマホを見せた。どこかの駅のホームで改札に向かう人たちの写真だった。秋江の指がベージュのコートの後ろ姿をさしていた。
「この人、チカンなの」
「えっ、ウソー」それは、まぎれもない美由紀の父の背中だった。いかに大勢の中にあっても、父の長身は目立っていた。「わけがわかんない。お父さんがチカン?………誰に?………アッキーに?………ウッソー」
「もしかしたら、と思ったんだけど」
 秋江がある言葉を呑んだように、美由紀には思えた。「やっぱり」の一言を。美由紀は、両手で顔を覆った。頭の中で崩壊する父親像。その破片が手の平にこぼれてくるようだった。
 ひとしきりして、美由紀は手の平から顔を起こした。涙らしきものが目の周りに貼り付いているのに気がついた。美由紀は、秋江には見られたくないと思って、顔を背けた。秋江にかけるべき言葉が思いつかない。自分が父に代わって秋江に謝るのもおかしいと美由紀は思った。
 沈黙が続いた。日はとうに沈み、ベンチの周りには夕闇が迫ってきた。
「気づいていないよ。きっと。アッキーだと」
 美由紀は、父の弁護をはじめた自分の口を呪った。下唇が痛かった。
「アッキー、ごめんね。まだ信じられない、父がチカンなんて。チカンって、何をしたの」美由紀は慌てて自分の耳を覆った。「いや、聞きたくない」
 でももう一度、美由紀は笑いを含んだ暗い顔を上げ、秋江にきいた。
「どんなことをしたの」

 美由紀は家についたが、自転車置き場に自転車をしまうのも面倒だった。スタンドも立てずに倒れるに任せた。八つ当たりなのは分かっていたが、無性に何かに当たりたかった。父の車のタイヤを蹴ってやった。下品な言葉を心の中で浴びせた。父は土曜日なのに、会社に行っていた。それは、いつもどおりのこと。いま顔を見ないで済むことが、不幸中の幸いのような気がした。
 自転車置き場に母の自転車がないので、買い物にでも行っているだろう。美由紀には、倒れている美由紀の自転車を立て直す母の姿が目に浮かんできて、また涙が出そうになった。母は何も知らないのだから。美由紀は自転車置き場に戻って、自分の自転車を立て直した。
 美由紀は、二階にある自分の部屋の床にバッグを置き、秋江からもらったブロマイドを机の上に放った。何もやる気が起こらず、ベッドに潜り込んだ。布団を頭からかぶって丸くなった。
 腹立たしい気持ちが四方八方に飛び散る。秋江は、なぜあんなことを私に言うのか。自分の父親が痴漢だなんて言われて、私がどう思うかも想像できない秋江の鈍感さが腹立たしかった。のんびり屋もいい加減にしろ、と思う。秋江は、痴漢の男が自分の知っている人ではなかったかをただ確かめたかっただけ。ただそれだけのことだと言う。世間から浮いているお嬢様然とした顔で言われると、秋江を恨むのは筋違いで、秋江はかわいそうな被害者でしかない。そんなことは分かっているのだが。

 この気持ちがどうしたら落ち付くのか。美由紀は目を閉じて、自分の胸の中をのぞき込んだ。母に相談しようかとも思う。「あなたの夫は変態ですか?」そんなこと聞けるわけないじゃないかと自問して笑う。涙が出る。それに、母に相談したら、母の怒りに火をつけるだけで、家中の家具が父に投げつけられるだけ。ただそれだけのことで、自分の気持ちなどは置いてけぼりにされるだろうと美由紀は思った。
 自分を支えるものは何だろうと考え、机の上に放り投げたブロマイドを思いだした。手を伸ばしただけでは取れなかったので、起き出して胸に抱え、また布団の中に戻った。半年前に見た「スパニッシュ・ブルー・アイ」でホセ役を演じた天乃くれないの舞台を思い出していた。最期に断頭台となる大階段を登っていく王妃を見送るホセの悲しみ。痴漢などという汚らわしいものが微塵もない崇高な愛情。その悲劇が一転して華々しいフィナーレとなる驚き。まるで天国に迷い込んでしまったかのような世界。他人は、作り物というかもしれないが、美由紀にとってはこれこそが本物なのだ。父が痴漢などという世界の方が偽物なのだ。本物が偽物につぶされてなるものか。美由紀はそう思う。
 玄関のドアが開き、母が「美由紀、帰ったの」と下から呼んでいる。美由紀は応えず寝たふりをしていた。階段を上ってくる足音がし、ドアが開いた。
「………勉強疲れ、か」という母の声。続いて、ドアの閉まる音がした。

「美由紀、ごはんよ」
 階下から母の声がした。いつの間にか眠ったらしい。
「食べたくない!」
 美由紀は大声で言い返した。
 階段を上って来る母の足音。ドアが開き、母が入ってきた。
「入って来ないでよ!」
「馬鹿言ってるんじゃない。受験勉強ぐらいで不機嫌になって。恥ずかししくないの?」
「お父さんは?」
「帰ってますよ。一緒に食べましょ。さあ」
 美由紀は母に腕を取られて起こされた。一寝入りしたせいか、気分はいくらか落ちついていた。かと言って、父と一緒に食事をする気にはなれなかった。
「食欲ないから、ごはん、一口だけでいい」
 美由紀は寝ぼけたふりをしながら起きあがった。
 階下のダイニングでは父が自分の席に座ってすでに箸を動かしていた。テレビでは、父のお気に入りのバラエティ番組が流れていた。
 美由紀の席は父と真向かいの席。ゆっくり腰を下ろして、父の顔を見上げる。美由紀は自分の目が鋭すぎると思い、テレビの方を向いた。芸人がつまらない洒落を言った。父はそれを笑ったが、美由紀には少しも面白いと思えず「ちぇっ」と舌打ちした。
「なんだい、機嫌が悪いな」と父。
「何だか今日は変なのよ」と母。
 美由紀は、ふてくされてつまらなそうにご飯を食べてみたが、やっぱり食欲が出ず、お汁だけゆっくりのんで、父の様子をうかがっていた。
 父は上背があるだけでなく、脚も手も長い。美由紀は、その形質を父から引き継いだ。指も長い。昔はピアノをひいたという。今はその指でコンピュータのキーを叩く。
 父の指がウイスキーグラスを握る。それを落ち上げ喉に流し込むと、今度は箸をとりホッケの開きの身をつつく。小骨がついてきたので、左手の親指と人差し指で摘む。小骨を皿の端に載せておく。右手の箸は小さな白身をつまみ、口元へ運ぶ。するとピンク色の舌が現れて、巻き取っていくのだ。骨付きのチキンの唐揚げを食べるとき、父は左の親指と人差し指でチキンの骨の部分を素手でつまみ、肉の部分にかじり付いた。口に肉汁がしたたりそうになり、ティッシュで唇を拭いた。美由紀は、そんな父の動きをじっと見つめていた。
 父は食事をほぼ終えて、またグラスにウイスキーを少し注いだ。右手の指がグラスをつかみ、持ち上げ、口元で斜めにする。父のその指。その指が、秋江の体を触るのだという。
「お父さん。私、話があるのだけど」
 美由紀の声がいらいらと響いた。
 父は、酔ったようなとぼけた目で美由紀を見た。
 美由紀はからかわれているような不快な気分だった。
「お父さん、チカン?」
 一瞬、父も母も沈黙した。
「私、お父さんに聞いているのよ。お父さん、チカンした?」
「何を言っているのか、分からないが」
 父の声はうろたえていた。
「今日、アッキーに会ったの。そしたら、アッキーがチカンされたって言うのよ」
「アッキーって、小学校で一緒だった子?」
「まさか、そんな」と口を挟んだのは母だった。
「お母さんは、黙っていて!私、今日はとっても恥ずかしい思いをしたのだから」美由紀は、そう言い終わらないうちから泣き顔になっていた。しゃっくりを上げながら、ポケットからスマホを取り出し、夕方の公園で撮った写真を見せた。前髪を切りそろえた大きな目の制服姿の秋江が映っていた。
「あっ、この子。この子は知っている。この子が、あの、アッキー?」父は、苦笑いしながら首をひねった。
 父の話では、満員電車の中でもがいている少女がいて、背の高い父からそれが見えたのだという。少女が父の顔を見て、自分から近づいてきて「助けてください。チカンがいるんです」と小声で言ったのだ。父は、見ず知らずの少女だが、自分の娘を守るような気持ちで、チカンしていたと思われる若い男との間に自分の体を無理矢理差し入れたというのだ。それ以来何度か同じ少女を駅のホームで見かけたことがあり、少女の方が気づいて、頭を下げるのだという。そして少女が何か危険を感じると「よろしくお願いします」と言って一緒の車両に乗ることもあったという。「不思議だなと思っていたんだ。妙に親しげなんで。アッキーだったのか。それなら、分かるな」
 父は納得したようだったが、美由紀は釈然としなかった。
「だって、アッキーがチカンされたって言ったのは、お父さんよ」
「不思議だね」
 父は、それは自分には関係ないことだというように平然としていた。
 本当に父には疚しいところがないのだろうか。美由紀は自分のむしゃくしゃした気持ちの整理のつけようが分からなかった。秋江は嘘をついているのだろうか。もしそれなら、何のため?
 美由紀は、急に空腹を感じた。目の前に残した夕食を全部平らげても不満だった。他人から翻弄されている自分が馬鹿らしかった。何だか捨て鉢なことをしたくなった。
「お父さん」
 美由紀は父の方を向いて、手の平を上にした右手を差し出した。
 父は、ぽかんと、涙できらきら光っている美由紀の目を見つめた。

 東京ディズニーランドはクリスマスムードで一色だ。十二月三日は、美由紀の誕生日で、おまけに日曜日。美由紀が秋江を誘ったのだ。美由紀の父のおごりだと言って。
 美由紀は一ヶ月前のあの夜、父から一万円をゲットした。
「こんなに私が悩んだのはお父さんが大好きだから。分かってくれる? だったら、その慰謝料をもらってもいいよね」と言ったのだ。
 秋江はまったく無邪気だった。一緒にアーケードショップを覗いたり、着ぐるみ人形たちと記念撮影をしたり、アトラクションを楽しんだり。幼い頃から知っている秋江だった。
 ビッグサンダーマウンテンに乗りたいと言い出したのも秋江だ。美由紀は絶叫マシンは苦手だったが、秋江が喜ぶならと一緒に乗った。安全装置をおろして、二人並んで横バーを掴む。上下のアップダウンの高低差も激しいが、横Gはバーをしっかり握っていないと体ごと外に持って行かれそうだ。美由紀は体を堅くしてGに耐えていた。ところが、秋江は美由紀の腕へ自分の体を寄せてくるのだ。大声で「危ない」と叫んでも、腕を離そうとしない。もっともっときつくしがみついてくる。でもそんな時間もすぐに終わった。
 乗り物から降りても、秋江は「あー怖かった」と言いつつ美由紀の腕を放さない。それが秋江らしいところかもしれないと思いつつも、美由紀は邪険に払いのけたい衝動と戦っていた。絡みつくような秋江の指がいやだと思った。

この記事へのコメント