第20話   父の指   黒崎つぐみ

 土曜日の午後、順子は、音楽スクールに「大丈夫… 」と出かけて行った美由紀のことを考えていた。痴漢に遭った電車に乗ることは気分の良いものではない。途中で帰って来そうな気がして何度も時計を気にしていたが、1時間経っても帰宅する気配がなかった。音楽スクールへ着いてレッスンが始まれば気が紛れているだろうか。行ってしまえば夕方までは帰らないだろうと、以前、パッチワークの試作を頼まれていた鈴木に電話をした。約束の日を過ぎてはいたが、鈴木は3時なら以前遭った北センター駅に行けるという。順子は2時過ぎに家を出て、私鉄を乗り継ぎ、手芸店が入っているビルの上島珈琲店へ向かった。鈴木は作品の出来栄えに満足し、次の材料を順子の前に置いた。目の前に置かれた珈琲の香りが湧きたつようだったが、ゆっくり味わうこともなく、店の隅で紙袋に入れられた商品と材料の物々交換を済ませると、鈴木はそそくさと伝票を摘み、先に店を出て行った。材料の入った紙袋を確かめると、白い封筒が入っている。開けてみると、また5万円入っていた。アイドルのゴースト。影武者としてのお針子で得た収入は手をつけずに貯金しようと思っていたが、一万円札を見ると、たまには美由紀の好きなピノンのケーキでも買って帰ろうと帰路についた。北センターの駅から乗った電車の窓から見ると、薄暗い寒空の向こうに、ライトアップされた観覧車が見えた。大倉山の駅に着いたときは、街は夕飯の買い物客で賑わっていた。きょうは手早く出来るすき焼きにしよう。自分の気持ちも奮い立たせようと、いつもより…

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第19話  父が怖い      芦野信司

日吉の音楽スクールの一月二回目の授業は、翌週の土曜日午後一時からだった。  順子は、大丈夫?一人でいける?と心配したが、美由紀は「大丈夫」と頷いた。  ダウンのコートにジーパンをはきトートバッグを肩に下げ、大倉山駅の改札を通った。左手の事務室に目を走らせると、この間の夜の事務室の光景が脳裏に浮かんだが、昼の明るさの中で清潔そうな快適な室内がちらっと垣間見えただけだった。  順子に見得を切った美由紀ではあったが、本当は平気でいられるかどうかの自信はなかった。事前に何度も、電車に乗って日吉駅に着いてスクールまでの道を歩く自分の姿を想像していた。防犯ブザーが役に立つことは分かったが、肝心のその時は使えなかったので、電車に乗っているときは、手の中に握っていようとか、別の道具、たとえばスタンガンを持とうかとかいろいろ考えた。あの時の悔しさを思うと、血が体中を駆けめぐる。いろいろ考えた末に美由紀が出した結論は、ボールペンを握っていようということだった。要は素早く反撃することだと考えた。ボールペン一本でも反撃はできる。  ホームで電車を待つ美由紀の右手には、コートの袖に隠れてはいたがしっかりボールペンが握られていた。  電車が着た。ドアが開いた。  空いている席があったら座ろうと思う。痴漢にあう確率を減らすためだ。降りる人がいて席が一つ空いたなと思ったら、傍に立っていた白髪の老婆が座ってしまった。あとは無かったので、美由紀は、ドアのところに立った。体を車内の方に向けた。もうぼんやり外を見ていたり…

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第18話 秋江、キレる かがわ とわ

骨太で艶のない、けれどしなやかにうねる男の手が、木目をなぞる。慈しむようにゆっくりと。確かめるように丹念に。手の平で。指先で。木目と絡む指のアップ画面に、手の持ち主の声が重なる。 「触りながら、厚くするところと薄くするところを見極めます。音の高低、響きはこれで決まる。大事な作業です」  秋江は、たまたまつけたテレビの「琴職人の仕事」という映像に釘付けになっている。自室のベッドに腰掛け、腕を後ろについてぼんやり見ていたはずが、気づくと前のめりで画面を凝視していた。 「木の声を聴く、といいますか。最高の音色が出せるように削ってゆきます。丹念に撫でて探ります」 いつの間にか、おじさんの指がそれに重なる。おじさんの指は、もっと細くて長いけれど……。カラオケ店で見た、猫を創る指。巾着から出した端切れの山を崩す時の。より分けて並べる時の。丸いロータリーカッターを扱う時の。尖ったピンセットでつまむ時の。ボンドをちょんとつける時の。中指の腹でそっと押して整える時の。鋏と手が一体化する時の。鋏クロスに専用油をそっと垂らす時の。時の。時の──。  ──「お父さんて、ピアノを弾く前に指が震えるのよ」  ふいにユッコの声が脳内をよぎる。自慢するような庇うような声色だった。ユッコから「チカンされた」と衝撃のLINEが着信したのは、一月半ば過ぎ。話が話なので、LINEのやりとりを途中で電話に切り替えた。ユッコは、話しながら洟をすすったり、興奮して早口になったりで、被害に遭ってから母親に迎えに来てもらうまで、更に…

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