第2話     猫     黒崎つぐみ

                                                夕食前、娘の美由紀が「入って来ないでよ!」と言い放った時から母順子の頭には霞がかかっている。そのあと美由紀がどのくらいご飯を食べ残したのか、お風呂に入って髪を洗ったはずなのにどうして髪が濡れていないのか、食器をどんなふうに洗って片付けたのか、暖房をいつ消したのか。「入って来ないで」と言ったあとの娘の言葉を思い出そうとしても、それを拒否するかのようにすべての記憶がぼおっと霞の向こうに現れては消えた。 こんな時でも寝る前のルーティーンを体が刻んでいる。戸締りを確かめ、明日の朝のための米を研ぐ。ベッドサイドのドレッサーに向かうと、夫の邦夫はこちらに背中を向け、もう寝息を立てていた。ナイトクリームを頬に塗り全体に広げていく。「チカン」その言葉も順子の顔にナイトクリームと一緒に広がっていく。 ドレッサーの上には猫のクララの写真が飾ってある。まだ美由紀が生まれる前、夫が買ってきた猫だ。 「一人で家にいるのは寂しいだろう」 猫好きだった順子にとって、真っ白なチンチラの子猫は嬉しいクリスマスプレゼントだった。順子も可愛がったが、1年前16歳で死ぬまでクララは夫の膝の上を自分の場所と決めていたようだ。邦夫は長い指でクララを撫でて眠らせる。 「この仔の目、君の瞳に似ている」 夫は17年前、街角のペットショップで偶然目が合ったのだと言って高価な猫を衝動買いした。仕事から帰ると一日あったとことを…

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第1話 いやな指   芦野信司

                               久しぶりに秋江から電話があった。 「ちょっと早いけどお誕生日のプレゼントを渡したいの」という。  美由紀の誕生日は十二月三日。まだ一ヶ月以上先だ。美由紀は、次の土曜日の午後五時に、小学生の頃よく遊んだ児童公園で落ち合う約束をした。  秋江と美由紀は幼稚園からの幼なじみだった。中学になって、美由紀は地元の公立中学校へ進んだが、秋江は自由が丘にある女子大の付属中学に入学した。違う中学になってからは次第に会うこともまれになって、三年生になった今では、互いに誕生日にプレゼントを渡すときに会うくらいだった。  土曜日の午後、美由紀は自転車で図書館に行き、そこの学習コーナーで高校受験の勉強をするのが、このごろの習慣だった。コーナーの利用者は高校生と中学生がほとんどで、二十人ぐらいの人たちが黙々と机に向かっている。南側にある大きな窓からはブラインドを通して静かな秋の日が差し込んでいた。その日差しが西に傾き赤みを帯びてきたとき、美由紀は立ち上がって、参考書やノートを布のバッグにしまい込んだ。  待ち合わせの公園は、最寄り駅の大倉山へ続く道を自転車で十分ほど行ったところだ。公園に着くと、美由紀は自転車のスタンドを立て、前カゴからバッグを取り出した。秋江はまだ来ていなかった。秋江は約束の時間に少し遅れて着いた。公園に入ってから小走りに近づいてきて、美由紀が待っていたベンチの横に座った。白いブラウスにチェック柄の短いタイを結び、胸にエンブレム…

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